If I could wish(もし願うのであれば)

七夕が近くなり、様々な場で短冊を吊るした笹を見かけるようになった。

願うこと。期待すること。それは裏切られることに繋がるので私には禁忌だ。どんなに望んでもどうにもならない自分ではどうしようもないことばかりなのだから。

仕事を辞め、心配してくれる周囲への返信も断ち、誰とも話すことなく日々を送っているわけだが、私にはそのような状況に対する孤独の感覚は無い。何故なら、働いていて周りに人がいて当たり前にコミュニケーションを行っていた時だって、私は周りと分かり合えることはないと思って接していたし、実際、やっぱり無理だよねと思うことも多々あり、そんな時は今よりむしろ孤独を感じていたのではないかと思う。どうせ独りなのだ。形だけで人と繋がった「気になって」いても仕方がない。

安定して生きることが当たり前の人々は、本当に善意で「長生きしましょう」とか「生きてほしい」とか言う。自分を、生を、肯定できる育ち方をしてきたのなら、私だってそう思うしそう言うだろう。でも残念ながらそうではなかった(勿論、倫理的にそうあるべきだということは知っている)。

私が欲しかったのは、性別年齢民族国籍など関係なく、互いや社会がより優しく快適に過ごせるように緩く繋がり協力し合える「血縁以外の」パートナー的互恵関係。
生も死もフラットに捉えて、できれば死に向かわないようにと互いを労りながらも、もし相手が解放を選択した場合には、それをも否定せず、遂げた際には少し泣いて、でもお疲れ様って言ってもらえるような相手、コミュニティー。
しがらみや利害関係があると自由にハローグッバイできないから、見知らぬ場所での匿名の関わり。

でも、そんなの無いんだよ。知っている人も完全には信頼できないけど知らない人も信頼できない。日常でこちらもある程度の信頼をしている中で親近感を持って一定の距離以上に近付いてくる人には好意があるから、だからこそ私を、解放を、許容できない。
そう知っているから、私は話さないし、便宜的な分以上には近付かないようにするし、近付かれたら逃げる。

周りに人がいようといまいと、コミュニケーションをとっていようといまいと一緒。
どうせ平行線なんだから、傷付かない、傷付けないために断つ。

いつになったらきちんと整えられるかな。納得のいく形で閉じられますように。


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