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花と鳥と京都の日々(20240303〜0308)

(市バスは感染リスクが高いから使わず)ひたすら徒歩で、1日ひとつはお花のあるところへ行くことをタスクに、残りはその時の気分で歩き回り過ごした京都の日々。

3/3 三十三間堂と市比賣神社に寄って宿へ

三十三間堂
市比賣神社のお人形展示

3/4 梅小路公園まで歩いて行って疲れて宿でだらだらダレンの曲を聴いていた

好きな場所
梅小路公園。鳥が歩いていた。
あんまり逃げないから少し近づいてみた。
しばらく追いかけっこして遊んでもらった。
適当に歩いていたら見つけたいい感じのところ。千本通りだったかな。千本通り=朱雀大路ね。九条の公園に羅城門跡の石碑がある。

3/5 北野天満宮まで歩いて行って疲れて宿でダレンの曲を聴いていた

北野天満宮。真ん中ら辺にメジロがいる。
メジロは逃げちゃうから遠くからしばらく眺めていた。

3/6 御苑→ふたば→糺の森下鴨神社→哲学の道→南禅寺→町屋の日の展示2つ

御苑。お天気が悪い。
桜はまだまだだった。
ふたばさんで買い出し。ぎりぎり洋物?をゲット。
糺の森にいたサギ。
鴨川にいたサギ(かな、よく見えない)。
確か百万遍の辺りでサボテンの自販機を見つけた。
今出川通から大文字山。雲多い。
哲学の道
鴨がゆったり泳いでいた。
河津桜。いつもはこの辺で夕陽を見るんだけど時間が早過ぎた。
南禅寺のインクラインのところ。
適当に歩いていたら商店街がかわいい感じだった。
町屋の日の展示を見に行った。
上から見下ろす一階。
鴨川と鳶。
もう一つ。町屋の日の展示。
不思議な建物だった。

3/7 神泉苑→御苑御所仙洞御所→新島邸→仁和寺

神泉苑のアヒル。ぷりぷり。かわいい。
羽掃除中。
閑院宮邸跡にいた水鳥。
御苑。前日よりはお天気がよい。
御所に入った。
仙洞御所の水辺。
鴨発見。
同志社の新島襄邸。
書斎。
通りがかった神社できれいに咲いていた。下御霊神社だったかな。
仁和寺前。ここでもよく夕陽を見るんだけど遅過ぎた。

3/8 仏光寺(お菓子を買いに行った帰り)→町屋の日展示→帰宅

商店街で売っていたミモザ。
仏光寺かな。桜はまだまだ。
町屋の日の展示へ。お花かわいい。
すごい襖。
襖もお花も素敵。
二階から見下ろす中庭。
階段下を眺める。

どこかで六角堂へ行って白鳥と遊んでいるはずなんだけど写真を撮り忘れたせいでいつだか辿れない(鳥頭なので記録が無いと困る)。
日によって移動量が全然違う。疲れてだらだらしている日もあれば突如謎馬力で歩き続ける日もある。けど、哲学の道も仁和寺も遠いから、なかなか夕陽タイムに照準が合わせられなかった(哲学の道は帰ってこないといけなかったし仁和寺は遠すぎた)。

移動をしても、楽しんでも、コロナにも麻疹にもかからなかった。
0か1か、緊急事態宣言かノーガードかじゃなくて、気を付けながらできることを探せばいい。(鳥インフルも、心配だよね。)


マスクをしていたって笑顔は存在するし、目元からだけでもそれを見てとることはできる。たとえ視覚情報がなくたって、生き生き生活している全盲の方だっている。マスクで表情が見えないことで全てが終わるなら、視覚障害者はどうすればいいの?ルッキズムにも程がある。
視覚が足りないなら他で補えばいいんだよ。声色、話す内容、コミュケーションの形は実に多様だよ。素顔の笑顔にこだわる必要は無い。

互いに感染せずに元気に過ごせれば、一緒に楽しいことを長く共有しているはずだよ。
だけど無配慮のノーガードに感染リスクを突きつけるのなら、感染させられたくない人は何も言わずに逃げていく。あるいは逃げられなくても胸中に非常に嫌な思いが残る、逃げられない避けられなかったからこそ。そしてその人の笑顔は消えていく。それでも嫌々作り笑顔を見せることはあるかもしれないね。でもそれって素顔の笑顔なの?
素顔派は勿論、化粧もしないし髪も染めないしピアスも開けずメガネもかけずコンタクトも使わないんだよね?違うんだとしたら矛盾してない?

マスクをしなくていい、素顔の笑顔が見られる社会を作りたいなら、無策で感染を拡大させるんじゃなく、皆が安心してマスクを外せるように、感染を減らしていくことに尽力するほうが遥かに生産的なんじゃないかしらね。
他人のマスクを無理矢理剥ごうとしたところで、剥がされる側に笑顔が生まれることは絶対に無いよ。生まれるのは距離、隙間、見えなくても心の中を吹き荒ぶ冷たい風だけ。まさに「北風と太陽」の世界だから。

wikipediaだけど「反マスク」の項目が色々興味深いので、気になる方はご一読を。なかなか情報量も豊富。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%AF

私に言えるのは、「ノーマスクと接するは百害あって一利無し」だということ。
ノーマスクは「他人に感染させないための対策ができないか放棄した」、マスクを「できない」(可能)もしくは「しない」(意志)層だから、その性質が改まることは決して無い。特に近距離で長時間接する場合の感染リスクが爆上がりするので、できることとしては、ノーマスクを見かけたら即座に距離を取り、飛沫の直撃を受ける向きから目鼻口を逸らすこと、そして息を止めること。屋内の場合は特に、同じ空間にいる時間を少しでも減らすことが肝心だ。

ノーマスクは反知性と加害欲、暴力性の表れであり、この層に合理性や理性を求めることは到底不可能である。
その他害性については、私は「喫煙者」「(パートナーが妊娠を望んでいない状況で)避妊具を使わせない男」「性的同意なしに無理矢理行為を行う者」と非常に相関が高いと推測している
いずれも他者やパートナーのリスク被害迷惑や気持ちを一切顧みず、自己の欲求快楽のみを最優先し、平気で危害を加える行為である。根底にあるのは「自分さえ良ければ他人がどうなろうかまわない」ー自分の自由だけ主張し、他人の被害は「自己責任」にしてドロンする、新自由主義の浸透、究極的な格差拡大の中で、上にも下にも広まった非常に厄介な思想である。
ちょっとやそっとではもうどうにもならない。
この層はたとえ(花粉症などで仕方なく)マスクをしたとしても「自分のため」だけだ(他人のためになることは死んでもしたくない)から、咳やくしゃみの時にはわざわざマスクを外し、あえて他人に飛沫を浴びせかける。そのような人間は、だいたい適切な着用をしていないこと(主として鼻出し)が多いので、ノーマスク同様、きちんと鼻と口周りを隙間なく覆っていない、マスクの意味や使い方が理解実践できていない者からも予め距離をとっておくことが無難である。

マルチデミック社会におけるマスクとの関わり方にはその人物の思想や人間性がもろに反映される。

ノーマスク山のヒグマ、庭のスズメバチ、インドの道端で涎を垂らしている犬と同じである。とにかく逃げること。それしか無い。「理」の通じない相手なのだから。


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