NEVER let me stay.

その昔、大学入学前公立図書館へ入り浸っていた頃、館内のブースで映画を観ることができたので暇つぶしに気になるものを手当たり次第観ていた。加えて、貸出で持ち帰って家でも観ていた。カウントしたらものすごい数になっていたと思う。

大学入学後、時間が無くなり映画鑑賞の習慣は絶えた。私は忘れっぽいので、観たものの大半は内容が記憶に残っていない(読んだ小説もすぐ忘れてしまう)。でもその作品を味わった時のぼんやりとした感覚が残っているものはいくつかあって、その一つが『日の名残り』だった。
自己紹介などで「好きな映画は?」と聞かれると『日の名残り』と答えていた。しかし、その先「あー、あれね」と盛り上がることはなく(皆知らない)、仮に話を展開させようにもうまく運べなかったのではと思う。
アンソニーホプキンスがお屋敷に仕える忠実な執事役で、彼の視点でそのお屋敷のかつての日々の回想と(時代も主人も変わった)現在を行き来する感じだったと思う。派手なアクションやドラマチックな展開は無く、淡々と日常が描かれる、その中にあるノスタルジーと、ノスタルジーをノスタルジーたらしめる、「もう戻れない」圧倒的に立ちはだかる現実と、それに対する、あからさまに見せることはないものの何だかfitしない感じや諦めめいたもの、それらを内包しつつ現実に合わせていこうと努める語り手像が味わい深いという印象だった。かつての主人はイギリス人、現在の主人がアメリカ人という設定もニクい。背後には戦争のことも絡んでいるので世界史の知識があればもっと楽しめたんだろうなと思ったりした(私は高校時代にほとんどまともに勉強をしていないから、特に知識積み上げ型教科の知識が入っていない)。

それからしばらくした後、私は飛行機の中で暇つぶしに観る映画リストを物色していた。大学入学後は映画からも文学からも遠ざかり(必修のもの、読まなければいけなかった作品以外に自発的に文学作品に触れることは無かった)、世の中の流行り廃りにもあまり興味がなかったので、ヒット作品についての知識も無かったし、むしろ世間で流行っているような作品をわざわざ見ようとも思っていなかった。
あれはどこ行きの何航空だったんだろう、リストの作品説明を眺めつつ、音声は英語、字幕も付けても英語のみか、、なんて思いながら(アカデミックライティングについてはある程度トレーニングを受けて慣れたけど、語彙の範囲が全然違う文学は正直キツい)気になって選択したのが"Never let me go"だった。
臓器提供のためにクローンで製造された子ども達と生の話。後味は悪い、気分が重くなる、けれどもその引っ掛かりが残るところが魅力でもあって、これをどう消化すればいいのだろうかと思いながらエンドロールを眺めていた。すると流れてきたのは"Kazuo Ishiguro"という名前だった。

「ん?」

日本人、、なの?(そんな感じはしなかったけど、、)

気になって、飛行機を降りた後に検索をかけた。イギリスの作家(そう、それは納得、あの感じはアメリカではない)、代表作品、に、『日の名残り』?

!!

『日の名残り』とは、あの『日の名残り』か?

念のため確認する。原題はいずれも"The Remains of the Day"、内容的にも間違いない。あの『日の名残り』の原作者、同じ人だった。そして、その人の作品を、知らないまま選択してやっぱり良いと思ったのだ。

日本人の名前だけどイギリス国籍。幼少期に渡英し、グラマースクールへ通った、ギャップイヤーで旅をする、音楽が好き、、
私がこの人の作品に引き寄せられ惹かれるのは必然だったと思った。しかし、その先、深追いすることもなかった。当時はおそらく欧州一人旅の途中だったし、帰国したらまたしなければいけないことだらけだったから。

そしてそれからさらにしばらくした後、カズオイシグロはノーベル賞を受賞した。すると一気にメディアは「日本人」がノーベル賞を、と騒ぎ立てた。いつものことだけど、気持ち悪いと思った。

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ご縁があれば、いつか自然に巡り合う。
もうずいぶん長く生きてきて、そう思わされることがいくつもあった。

仕事も人もそうだった。
だから退職についても、そうなるということはそこまでの縁だったのではと思っている。抗っても仕方ない。生命の長さについても同じ。
この世はどうしようもないことだらけなのだから。

どこでどのように生まれどう育つかどうなるか
それは国レベルでも、家レベルでも言えることだし、時代によっても状況は全然違う。

私はバブルの恩恵なんて全く享受できなかった世代だけれども、それでもまだかつて経済大国と言われ景気が良かった日本の、それこそ「名残」の時代で多くを暮らしてきた。
海外行けば実態がどうであれ「金持ちの国」から来た人間として認識されたし(たいていはカモとしてだけど)、私は小中時代は公立へ通ったけど、そこでも日々の食事に困るなんて家庭は、全く無いとは言わないものの、かなりレアだった。奨学金をもらわないと大学へ行けない、ローンに加えて学費のために働き詰めなんて本末転倒な状態も今よりずっと少なかったし、もはやユニクロが贅沢品になるだなんて考えもしなかった(私達が大学時代に買っていた価格帯のアパレルショップはもうかなり潰れている)。

私は私を持て余している。勿論一般的尺度からすれば私より大変な状況にある人々がたくさんいることも知っている。けれどもだからといってそれは私の認識する私の問題の困難さに影響することではない。

日々食べられない状態であれば、無駄な過食を繰り返すこともない。
学歴や教育に価値を置かないであれば、進路勉強練習などを強制されることもなかった。
土地や資産の無い家の生まれであれば、あのような形の理不尽がまかり通り、人や自分を取り巻くもの全てに絶望することも無かっただろう。
分かりやすい貧困の中にいれば、そこには支援へ繋がる可能性がある。しかしきっとそこでは別の形の理不尽が生まれていたはず。そして私は分かりやすくグレられたことだろう。

けれども、いったい何が幸せ、あるいは「まし」な状態なのだろうか。

Never let me stay.

たとえ我が儘だと言われたとしても、私は思う。理解されないことなど知っている。

自分で選べないことがあまりに多い。現実の前に、人はあまりに無力だ。

私には生きなければならない理由が無くなった時点で既に寿命だった。不毛なこと、甲斐無いこと、もううんざりだ。長く生きたい人は長く生きてほしい。そう思える人が、少しでも削られなければと思う。けれども、残念ながらそうなる社会でも無い

それでも言うことがあるとしたら。手は、完全に根が枯れる前に差し伸べること。
草もそうだけど、一見枯れてしまったように思えるものでも、根っこが生きていれば、そこから逞しく復活していくことも可能だったりする。しかし、似たような見た目でも、完全に枯れてしまった後のものには、どんなに水をあげても、どんなに泣いて祈ったとしても、何の効果も無い。

覆水盆に返らず。

手遅れを作らないこと。死人が出た後に何を言っても遅い。
一見非効率に思える「予防」「事前」の対策が極めて重要だ。それは感染症についても同じこと。しかし、決して理解されることないだろう。このノーマスクの群れの中で。


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