生活保護世帯から東大で博士号を取るまで⑧

勉強から研究へ

大学院ではいよいよ研究をすることになります。
自分はそこそこ勉強ができるということは知っていましたが、研究能力については未知でした。
それでも、私に出来るのは精一杯やるということだけでした。

勉強と研究は結構違っていて、その切り替えがうまくできずに失敗する人も多いという気がします。
私はこの違いを理解していたからか、案外スムーズに研究に移行できたと思います。

大学院を修了するまでに、私は8本の論文(内4本は出版済み)を書き、16回の口頭発表(内5回は国外)をこなしました。
数論幾何では、これはかなり多い方だと思います。
例えば⑥で出てきた教員は修了時に論文4本(内2本出版済み)で口頭発表は5回でした。

これらの業績により、無事博士号を取得し研究科長賞をもらうこともできました。
研究職の仕事も得て、今も数学の研究をするのが仕事です。

全ては15の時に始まった

私が大学院修了までの計画を立てたのは15歳の時でした。

その計画を達成するには、
・文系限定の奨学金を獲得して東大文科に合格し、
・史上初めて文科から数学科に進学、
・相当時間のアルバイトをこなしながら好成績を維持して
・難関の大学院入試を突破し、
・さらにリーディング大学院や学振を獲得して
・十分良い論文を書き博士審査に合格する
ということを全て一度も失敗せずに達成する必要がありました。

私はそのために精一杯努力し、これら全てを達成しましたが、
そのためにはどうしてもくじ引きで当たりを引かなきゃいけないような場面が何度もありました。

各時点での様子をあまり長く書かないことにしたので、このことがうまく伝えられた自信はありません。
今後このnoteを継続して更新することでその点を補っていければと思っています。

また、これもあまり詳しく書かなかったことですが、各時点で一番問題だったのは精神的な負荷の問題です。
私は私の同級生が当たり前に享受している環境を獲得するために周囲に大変な「迷惑」をかけることになり、それが私を苦しめ続けました。

高校の時の担任は私に、成績が良いにも関わらず家族を助けるために高卒で就職した先輩の話をしました。
なぜそんな話をしたのかよくわかりませんが、まるで「お前も高卒で就職して家族を助けろ」と言われているような気がしました。

母親はよく「お前がいなければ私の人生はもっと楽だったんだ」と言いました。
その通りだと思います。
私さえいなければ、ここまで述べたような問題は何一つ起こらなかったし、そのせいで人に迷惑をかけることもありませんでした。

だから私が前に進むには強力な理由が必要でした。
その理由の一つとして、「もし自分が数学の天才だったとしたら、その才能がここで消えてしまうのは人類に対しての罪である」と思い込むことにしました。

誰も彼もに「迷惑」をかけてしまった以上、私は常に自分の才能を証明する必要に迫られてきました。
特に敬意も払われていない状況で、この精神的負荷に耐え続けるのが一番難しいことでした。

でも本当は進学するのにこんな理由なんて必要ないはずなんです。
みんな平等に、夢を実現する機会が与えられていなければならないはずです。

ほとんど推敲もせずここまで書いてきましたから、読みにくい部分も多々あるかと思います。
それでもこの記事が誰かの利益になればと願っています。

学位記伝達式には出なかった

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