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#評論文
脱学校的人間(新編集版)〈27〉
大人という結果から逆算して、その立場からさかのぼって見出される「子ども」という存在から、あるいは、「子ども時代」という限定された一期間について想起される観念において、むしろ逆に「大人たち自身の子ども時代」なるものが、そこからは反映的に見出されてくることにもなる。そこで大人たちは「子どもの未成熟さ」というものを、「かつて自分たち自身がそうであったと思われる、未成熟さの再現」として、自己投影的に見出
もっとみる脱学校的人間(新編集版)〈28〉
「子どもはあくまでも子どもらしく振る舞っているべきだ」という考えがある一方で、「たとえ年若い子どもであっても、彼らは大人と同じように社会的に独立した個人なのであって、その事実にもとづいて彼らのことを、大人と同様に扱うべきだ」という考え方もある。
「…『学齢』にある児童の多くは、近隣について社会事業家とか議員などよりもよく知っている。もちろん、彼らは、むずかしい質問をしたり、官僚主義を脅かすような
脱学校的人間(新編集版)〈29〉
学校は、誰もがそこにおいて学び、そこを経由して社会に送り出されていくものであるように、期間も空間も限定されたものとして設定された「場」である。その学校は子どもを、年齢に応じて区切られた一定の集団へとひとまとめにする。言い換えると学校は、それまでバラバラに生まれバラバラに生活していた「誰かの子ども」を、ある年齢に至った一定のタイミングで区切り取り、「子どもたち、もしくは児童・生徒」と呼ばれる一定の
もっとみる脱学校的人間(新編集版)〈30〉
一定の年齢に限定された、しかも年若い「子どもと呼ばれる期間」に限定されて教育が施されることに異議を唱えるフロムの主張は、むしろ少し前に日本の某自称社会学者氏が提唱していた「保育園義務教育化」なるものに、逆説的にだが一脈通じるところがあるだろう。そこで言われるのは要するに、人が「子どもたち化された状態」を「上」に拡大・延長するのか、それとも「下」に拡大・延長するかという違いだけである。
しかしも
脱学校的人間(新編集版)〈31〉
そもそも教育が意図するところを遍く普及させるためには、一定の整った環境がなければならない。逆に言えば、そのような環境がなければ教育なるものは成立しえない。学校という具体的な社会的構成体は、まさにそういったような発想にもとづいて設計されていると考えられる。そしてそのような発想はまた、「教育が成立しえない環境においては、人として学ぶ機会も奪われている」といったような発想にもつながっていく。
たとえ
脱学校的人間(新編集版)〈32〉
いわゆる「近代まで」として区切った場合の、子どもの労働のその「働き方」というものとは、端的に言えば「家の仕事をする」という意味合いに集約されるのだと見てよい。そしてその「家」というものは、すなわち「親自体」のことを同義的に指しているのでもある。仮にもしそれが「親のいない子ども」であったとしても、あるいは自分の生家から「よその家」に奉公や修業に出されたのだとしても、その「親の代わり」というのは、た
もっとみる脱学校的人間(新編集版)〈33〉
親による子どもに対する収奪は、子どもが「親そのもの」である限りにおいては可能ではないし、成立もしない。少なくとも、その「もの」の自立性に親自身が気がつかない限りは、それはけっしてできないことなのである。
では、親は一体どのようにして「そのこと」に気がつくことになるのだろうか?
イリッチは、自身の体験として次のような印象的な話をしている。
「…私は雇い夜警人であるマルコスと、理髪店で働いてい
脱学校的人間(新編集版)〈34〉
子どもは大人から、なかんずく親から強制的に働かされ収奪されている、それにより彼らは教育を受ける機会さえも同時に奪われているのだ。
そのように判断し「親から子どもたちを守ろうとする」のは、一体「誰」か?
言うまでもなくそれは「大人たち」である。
ではその「大人たち」とは、一体「誰」なのか?
まさしくそれは、「誰の親であるのかということが、その条件として一切問われない、他人の大人たち」に他な
脱学校的人間(新編集版)〈35〉
誰の親でもないがゆえに実際の親子からは外側の立場に身を置く他人の大人たちが、子どもをその親から分割し引き剥がすことによって、むしろ親は自分の子どもを単に「一般的な子ども」として、自分の外側において見出すことができるようになる。
そしてそのことにより親たちは、その「自分自身の外側」に生じ浮かび上がってくる「子ども」からの、「収奪の可能性」に気づかされることになるのである。それは、誰の親でもない大
脱学校的人間(新編集版)〈36〉
労働力商品として売られた子どもは、市場では当然「大人よりも安価な労働力」として買われることになる。なぜなら子どもは「大人に対して欠如した存在として見なされている」からである。だから彼ら子どもの労働力の価値は何よりもまず、大人の労働力と比較すれば相対的に安価で買うことのできる労働力として成立することとなるのだ。
労働力市場において、もし同等の生産力を持った労働力と見なされているのであれば、より安
脱学校的人間(新編集版)〈37〉
イリッチが語っていた挿話に登場する、自分の息子を理髪店へ働きに行かせていたマルコスについて、ここで少し話を戻してみよう。
マルコスはイリッチに指摘されてその事実に気づく以前から、実際にはすでにその息子を「労働力」として理髪店に売って、そこから自分自身の利益を得ていたのだと言える。しかしマルコス自身の意識の上では、働くという事実としては自分も息子もほぼ同じことをしているだけだという感覚しかなかっ
脱学校的人間(新編集版)〈38〉
子どもに教育を与えるということは、親から子どもを切り離して奪うということである。それによって大人たちは、「自分の子どもでも何でもないような、巷にあふれるように存在している子どもたち一般」に対して教育を与えることができるようになる。
そして人が「教育への欲望」を見出すのは、きまって他者に対してだけである。なぜなら、支配の欲望もまた同様に、他人にしか向けられえないものだからだ。すでに言っている通り
脱学校的人間(新編集版)〈39〉
全ての人間が、学校から社会に送り出されてくる。
その学校に送り込まれていく人間とは、子どもでありさえすれば誰でもよいとでも見なされているかのような人間たちである。逆に言えば、どのような子どもでも学校に送り込まれさえすれば、「巷のどこにでもいるような一般的な子どもたち」としてその学校の中に回収され、それが社会に送り出されてくる頃には、誰でも皆だいたい同じようなものとして社会的に機能するように作り
脱学校的人間(新編集版)〈40〉
上野千鶴子は、学校という制度は近代国家が整備したものであり、その目的とする自国民の均質化・標準化に特徴的な機能を持つものなのだ、としている。そしてその、国家による国民の均質化・標準化を証拠立てるものとして、近代になって新しく生まれたような職業には、官員・社員・教員などといったようにどれも「員」の文字がついている、これはそれらが全て近代の産物であって、それ以前には存在しなかったということを表してい
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