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#歴史
「生きさせられている」は受動的か
ふとした疑問。
あんまり「私、生きてます」とか思わない方がいいんじゃないか?と。
自らのやることなすことに責任を全くとらないってこと??とも解釈されうるんだけどさ。
「生きさせていただいている」みたいな謙譲的表現ならまだ受け入れられやすいかな???
なんでこんなことをつらつら考えるのかというと、現代ってエゴが出ずっぱりな印象があるからなんよね。
私の人生、私の好きなように生きる
あまり
フィクションっていいかも
最近柄にもなくフィクションを書こう書こうと試みている。
全くカタチにもなってはいないのだけど、考えているだけでいいことあるかもしれないと思えてきた。
そもそも何が絶対言っておきたいことなのか?
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礼儀正しく参りましょう♪
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マネマネはカタチ。
マネはケアの源。
マネはちょっぴりの悔恨を含む。そして憐れみも。
カタチは一瞬。故に繰
日本の歴史も相当深い
しかし、そんなことは当然だったのである。民衆の信仰はイエやムラやクニに発し、地場こそが繁栄の原動力になってほしいはずなのだ。今日の地方創成がうまくいかないとしたら、あまりに産物や商戦に頼っていて、パトリオットな信仰的愛郷力に活力がないためではないかと思われる。(松岡正剛 千夜千冊 1653夜 『江戸の思想史』田尻祐一郎 より)
ただ、上の抜粋はややロマンティシズムの匂いが強い。
地元意識という
お洋服を着ざるを得ない
『パンツをはいたサル』というようなタイトルの本がありましたね。
聖書の、アダムとイブが知恵の木の実を食べてしまってパラダイスから追放される逸話では、二人がプライベートな部分を葉っぱで隠したくなってしまったことが、恥の感覚の発生を仄めかしているともいわれます。
何で私たちは服を着るんだろう?と問われれば、恥ずかしさとか、他者への配慮とか、毛がないからとか、様々に服を着たくなる原動力といいますか、