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生まれて初めての夜ふかしは、いつか観たサーカスよりもワクワクし、好きなコの横顔を盗み見る一瞬よりもドキドキした

 夜ふかしをしたことがない子どもだった。

 平日はもちろんのこと、たまの休日でさえ二十三時前後には鞴のような寝息を立てていた僕にとって、それ以降――つまり深夜帯は、言うならば存在しない時間だった。

 十五歳、中学三年の秋頃だったと思う。所属していた腐れサッカー部を総体敗退を期に引退してからというもの目に見えて体力があり余り、なかなかスムーズに寝つくことができなくなっていた僕は、このタイミングでようやく夜ふかし童貞を卒業することになる。

 もっとも、それは決意のもとの卒業ではなかった。結果的に、そうなってしまったのだ。

○○○

 ……眠れない。

 内心でぼそりと呟きつつ、自室のシングルベッドから机上の置き時計に視線を転じると、燐光を宿した二本の針は共に「12」を指し示していた。まぶたの裏の世界に意識をトリップさせようと試みてから早二時間弱。幸いにも明日は休日である。しかし、できることならば今すぐにでも眠ってしまいたい。

 薄闇の中、仕切り直すように再び両まぶたを閉じ、五分、十分、ニ十分――羊をいくらカウントしようとも睡魔は頑なに訪れず、ならばこれでどうだ! と当時バラエティ番組を中心にプチブレイク中であったロリータフェイス・グラビアアイドルを頭の中に一人二人と連続降臨。

 無論、まったくの逆効果である。そのたわわとしか言いようのない国宝級バストを前に、かえって目が冴えてしまった。

 参った。いやはや、本当に参ってしまった。

 今やあらゆる雑念によって支配された脳ミソをそのままに、やおら天井の照明をオン。安っぽいルームフレグランスの匂いに満ちた子ども部屋が、安っぽいシーリングライトでもって瞬時に明るくなる。これは長期戦を覚悟した方がよさそうだ。

 フランネル生地のブランケットを身体から勢いよく引き剥がし、僕がまず初めにしたことといえば筋トレだった。鈍りに鈍った筋肉に負荷をかけることで睡魔を誘発させようと、そんな安易な発想に思い至ったのだ。

 考えてみれば、部活現役時代は練習後の心地よい疲労と共にベッドインからの弾丸入眠。不眠に悩まされたことなど、ただの一度だってなかった。

「……終了っと」

 腕立て伏せに腹筋、背筋と、各二十回ずつを五セット行い、数分かけて三種目すべて終わらせた頃にはもうくたくた。疲労困憊の太文字が頭上三十センチを旋回していた。

 傷んだ畳にだらしなく寝そべりながら、額からは玉の汗をいくつも滲ませながら、なぜかマージービートがノンストップで流れ続けている脳内。我ながらまったくもって意味がわからない。理解不能である。しかし、そんなことはお構いなしにとヴォリュームはいや増し、やがて平時ダウナーな僕のテンションを狂わせた。大いに、派手に狂わせた。人生初の、いわゆる深夜テンションってやつに陥ってしまったのだ。

 僕は筆舌に尽くしがたい高揚感のままに、気づけばパンイチ、もといパンツ一丁になっていた。

「……ふんっ! やあ!」

 ドナルドダックの顔が無数にプリントされた、ファッションセンターしまむら産のトランクスのみを身にまとい、なんとも誇らしげなハリウッドスマイルを浮かべながら、姿見の前でボディビルダー的ポージングを決めてみせる僕。

 そんな常軌を逸したエキセントリック中坊をA1判非売品ポスターに写る愛しき推しが、天井から聖母マリアのような微笑みでもって優しく見つめている。見つめつつ「わたし、男らしい人だぁい好きっ」と一言。語尾にゆらゆらと揺れるハートマークを添えながら、甘い吐息交じりに囁いている。

 のちに彼女が、某ダンス&ボーカルグループの、テストステロンの化身のようなメンバーと熱愛発覚、からの結婚発表、からのタカトウ青年大ショックという一連の流れがあるのだが、これはまた別の話だ。

○○○

 生まれて初めての夜ふかしは、いつか観たサーカスよりもワクワクし、好きなコの横顔を盗み見る一瞬よりもドキドキした――。

 そんなポエチック極まりないことを内奥でしみじみと思いながら、僕は意味もなく二階自室の窓を開け放っていた。

 深夜二時、丑三つ時。北奥羽の骨身に染みる秋風が、ドット柄の断熱カーテンと、アシンメトリーなオシャレ前髪を申し訳程度に揺らしている。

 遠くで響く野良猫の嬌声や、インディゴに滲む点々とした人家の灯りや、だだっ広い上天にぼんやりと映える、こんがりトースト色の月。そのすべてがいやに新鮮で、またそのすべてが紛うことなき非日常に他ならなかった。言わばファンタスィに近かった。代り映えしないと思っていた、判で押したような日常にこんな一面が存在していたなんて、僕は知らなかった。

「ふう……」

 窓を閉める。風がやむ。僧院のような静けさが、再び己がワンダーランドを満たす。相も変わらず睡魔はやって来ない。筋トレ後、読書だったり、読書だったり、読書だったり、もうとにかくひたすら活字を読み耽るという作戦に踏み切ったのだが、まったくの徒労であった。

 一階キッチンからくすねたドクターペッパーをごくりと、わずかな背徳感と共に胃袋に流し込みつつ、今や裸一貫、トランクスさえ脱ぎ捨ててしまった十五歳は、四畳半の真ん中でつと思う。

 この時間、テレビ放送はしているのだろうか。

 はっきり言って、いやはっきり言わずとも未知の領域であった。ここはTBSもテレ東も映らない、何なら「世界・ふしぎ発見」を真っ昼間に垂れ流してしまうような、あまりにぶっ飛んだディストピア。仮にオンエア中だったとして、果たしてどんな番組が放送されているというのだろう。

 もし仮にブラウン管の向こうで、地元ローカルタレントらによる、映画「バトル・ロワイアル」的血みどろデスゲームが繰り広げられていたとしたならば……想像しただけで心臓がきゅっと縮み上がった。

 しばし懊悩たる思いに沈んだあと、僕はおもむろにリモコンを手に取った。好奇心が恐怖心を〇・九パーセントほど上回ったのだ。薄い唇を真一文字に引き結んだまま、部屋の片隅に設えられた十四インチの型落ちテレビにじっと照準を合わせる。まるで異国の敏腕スナイパーになったみたいに。

 得も言われぬ緊張を胸に、一拍、二拍と置き――意を決し、わなわなと震える指先で電源ボタンを押した。

 禍々しささえ孕んだ四角形の暗黒が、徐々に色彩を得る。三秒か、四秒か、やがてテレビに映し出された映像を網膜全体に捉えつつ、気づけば僕は瞠目していた。

「……えっ」

 そこには、歌姫Kが大写しになっていた。きらびやかな音楽業界の第一線で活躍する、超売れっ子アーティストKの姿があったのだ。

 今でさえ音楽番組やバラエティ番組への出演も増えたKであるが、所属事務所の意向によりメディア露出を控えていたデビュー当時、たまのコマーシャルやミュージックビデオ以外に実際に躍動する彼女を目視する術はなく、ゆえにこのときの衝撃たるや、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」で言うところのセカンドインパクトを遥かに凌駕していた。

 Kって実在したんだ……などと、まるで彼女をネッシーやモスマン、スカイフィッシュよろしく認識しつつ、今やテレビに釘づけの僕。

 記憶が確かならば、舞台は野外だった。時折映り込む街の景観から推測するに、おそらく秋口の京都なのだろう。大きく、真っ赤な神社風のセット (あるいは本物の神社だったのかもしれない) を背景に、ビッグバンドを従えた二十歳そこそこのか細き美女が、アイデンティティの塊のような歌声を夜闇に響かせている。

 当時の十代、二十代、果てはシニア世代までもが一度は耳にしているであろうメガヒット曲を披露するKを恍惚たる表情で眺め入りながら、僕は瞬きも忘れ、ひたすら彼女に魔酔するのであった。

○○○

 夢。夢の中にいる。

 星型のタンバリン片手に美声を響かせているKと、弾けもしないアコースティックギターをなぜか器用に、ハーモニクス奏法でもって爪弾いている大人びた姿の僕が、一つの画角に収まっている。僕は、そんな二人の様子を神の視点から俯瞰している。

 どうやら、ここは宇宙らしい。無重力の、煌々と輝く天体の上で、二人はジャズのスタンダード曲「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」のセッションの最中にあった。

 時折アイコンタクトを交わし合ったり、互いにはにかんだ笑みを浮かべてみせたりと、なんだか偉く良い雰囲気である。

 Kがリズミカルにタンバリンを叩くと、周囲にミニマムサイズの星くずが舞った。僕がしたり顔で超絶ギターテクニックを魅せつけると、傍らのライカ犬が嬉々として吠えた。

 宇宙警察飛び交う物騒なコスモを意にも介さず、

「最高の夜だね」

「ああ。俺たち、もういっそのこと月の住人になっちまおうか」

 一刹那、宇宙空間を時速三千宇宙キロでひた走るアンドロメダ行きの銀河超特急が、大きな、大きな汽笛を鳴らした。

「……それもいいかも」

 小さな舌をぺろりと、蠱惑的な笑みを向けたKが、控え目に首肯する。

「わたし、君となら、なんだかうまくやっていけそうな気がするんだっ」

 この夜、輝ける月面のステージで、僕らは一生に一度の、忘れがたきセッションを交わしたのであった。

○○○

 年に一度か二度、いまだにあの夜を想起する瞬間が訪れる。そしてそれが、たまたま今日だった。僕は迷わず筆を執った。

 思い返してみると、翌朝の目覚めは最悪だった。時刻は午前十一時。過剰分泌された脳内麻薬をそのままに、素っ裸の状態で寝落ちしてしまった僕を、開眼と共に猛烈な悪寒が襲った。やってしまった、と思った。僕は自分自身の異常をすぐに自覚した。要するに、熱発してしまったのだ。

 意識はモウロウとし、鼻水は止まらず、あまつさえ身体の節々には鈍痛が伴った。僕は半ば強制的に、母親に病院へと送り込まれた。

 クレゾール臭が鼻を突く、どこか陰気臭い診察室。小太りの、三遊亭好楽似の町医者が告げた診断結果は案の定、風邪だった。

「受験勉強も大変だろうけど、たまにはゆっくり休まないと」

「はあ」

「夜ふかし厳禁。少なくともニ、三日は安静にするように」

「はあ」

「……わかったね?」

 云々、好楽にテノールで釘を刺されるも、やはり一言「はあ」としか答えることができなかった。

 性懲りもなく僕が人生二度目の夜ふかしを試みたのは、それから約一ヶ月後のことだった。前回とは異なり、今回は端から一睡もしない気満々であった。日中のうちに寝溜めをし、近所の小汚ない薬局で仕入れたエスタロンモカ錠をバッキバキにキメ、備えは万全。

 まあしかし、結論から言うと、この夜は大して刺激的なものにはならなかった。平凡と形容してしまえばそれで片づいてしまうような、ひどくちんけな夜だった。そして、さらに言ってしまえば……これはある意味で核心を突いてしまう事実なのだが、あのクレイジー・アンド・ファビュラスな一夜を超える夜に、僕は十数年が絶った今もついぞ出会えていない。

 いつか観たサーカスのワクワクや、好きなコの横顔を盗み見る一瞬のドキドキにも劣るしょっぱい夜を、僕はあといくつ越えればよいのだろう。

「…………」

 今、都内某所に位置する築浅マンションの一室にて僕は、この文章をスマートフォンでもってせこせこと打ち込んでいる。ふと窓の外を見やると曇り空。月は見えない。

 埃を被ったマーシャル製のブルートゥース・スピーカーからはKの――倉木麻衣のミリオンヒット曲が慎ましやかに流れている。彼女の艶やかな歌声に耳を澄ましながら、僕は傍らのドクターペッパーにひょいと手を伸ばす。

 プルトップを引き開ける。プシュッという小気味好い音が耳朶に響く。

 一口、二口……。

 久方ぶりに口にしたテキサス州発祥の炭酸飲料は、常温のせいか、もはや飲めた代物ではなかった。そういえばあの夜も数口残したなぁ、などと感慨に浸りつつ、そして僕はまた手元のスマートフォンに意識を集中させた。


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