本能寺の変1582 重要 ◎第158話 時代の風潮 光秀の人格形成 斎藤道三の下剋上 光秀の人物像 土岐 随分衆 牢人 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第158話
時代の風潮 光秀の人格形成 道三の下剋上
光秀の人物像 土岐 随分衆 牢人
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*以下は、第158話から重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
◎最初は、頼純が優勢だった。
頼純は、越前の朝倉孝景と尾張の織田信秀の支援を受けた。
道三を圧倒する勢いだった。
【参照】目次小 12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 小
第84話 1/2
美濃では、再び、戦いが始まった。
朝倉孝景と織田信秀が頼純を支援した。
信秀は、美濃・三河、二方面で戦っていた。 『信長公記』
信秀は、美濃へ攻め入った。 『信長公記』
信秀は、斎藤利政(道三)の反撃をうけ大打撃を被った。
『信長公記』
◎道三が頼純を篭絡した。
正に、下剋上の権化。
この男、目的のためには、手段を選ばない。
凄まじい人物だった。
【参照】目次小 12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 小
第84話 2/2
斎藤利政は、出家して道三となった。
道三は、頼純に従属する姿勢を見せた。
そして、講和。
道三の娘が頼純に嫁した。 「春日文書」
◎天文十六年1547、頼純は、道三に殺された。
美濃に入国してから、十年に満たなかった。
享年、二十四という。
【参照】目次小 12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 小
第85話
織田信秀が古渡城を築いた。
信長、元服。 『信長公記』
信秀は、信長に那古野城を与えた。 『信長公記』
武田勝頼、生まれる。
信長、初陣。 『信長公記』
道三が、頼純を殺害した。 『信長公記』
◎光秀は、これを見ていた。
光秀は、その渦中にいた。
主君と家臣との距離が近かったように思う。
◎光秀は、この様な時代を生きた。
戦国時代の真っ只中。
光秀は、下剋上の中に生きていた。
◎光秀は、牢人になった。
光秀は、主君を失った。
「濃州土岐一家牢人」*1
道三は、その仇。
これ以後~弘治三年1557までの十年間。
光秀の足取りについては、全く手懸りがない。
不明である。
そして、越前の雌伏時代へとつづく。
「長崎称念寺門前に、十ヶ年居住」*2
*1*2については、後述する。
◎斯くして、道三は、美濃を我がものとする。
天文十八年1549
尾張の織田信秀と和睦。
娘と信長との婚姻。
天文十九年1550
土岐頼芸を追放。
美濃一国を手に入れた。
【参照】目次小 12光秀と斎藤道三 4大うつけ 小
第86話
越前の朝倉孝景が死んだ。
朝倉氏は、義景の代になった。
第87話
信秀は、道三と和睦した。
信長は、道三の娘を妻に迎えた。 『信長公記』
【参照】目次小 12光秀と斎藤道三 5光秀の三十代 小
第90話
1550年代、光秀の三十代。
☆この頃、鉄砲が普及し始めていた。 「言継卿記」
土岐頼芸は、まだ守護の座にあった。
☆道三は、頼芸を追放した。
☆下剋上、成る。 『信長公記』
道三の下剋上に対する世人の評価。 『信長公記』
道三の人生は、乗っ取りの連続だった。 『信長公記』
⇒ 次へつづく
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本能寺の変
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