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本能寺の変1582 第84話 12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第84話 12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 

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美濃では、再び、戦いが始まった。

 同、天文十二年、末。

   【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 81    

朝倉孝景と織田信秀が頼純を支援した。

 天文十三年1544。
 
土岐頼芸・斎藤利政(道三) ✖ 土岐頼純・朝倉孝景・織田信秀 

信秀は、美濃・三河、二方面で戦っていた。

 信秀は、国中から軍勢を搔き集めた。
 「憑み勢をなされ」
 それだけの力があったのだろう。   

  さて、備後殿は国中に憑(たの)み勢をなされ、
  一ヶ月は、美濃国へ御働き、
  又翌月は、三川の国へ御出勢。
 

信秀は、美濃へ攻め入った。

 同年、九月。

  或る時、九月三日、尾張国中の人数を御憑みなされ、美濃国へ御乱入。

信秀は、斎藤利政(道三)の反撃をうけ大打撃を被った。

 信秀は、稲葉山城下に迫った。

  在々所々放火侯て、
  九月廿二日、斎藤山城道三が居城、稲葉山山下の村々に推し詰め、
  焼き払ひ、町口まで取り寄せ、

 夕方、撤退しようとしたところへ。

  既に晩日申の刻(16時頃)に及び、御人数引き退かれ、
  諸手半分ばかり引取り侯所へ、

 斎藤利政(道三)は、その「隙」を衝いた。
 信秀の軍勢は、総崩れ。
 道三は、織田軍を撃退した。

  山城道三、どッと南へ向かつて切りかゝり、
  相支へ候と雖も、多人数くづれ立の間、守備の事叶はず、
  備後殿御舎弟織田与次郎・織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門・
  千秋紀伊守・毛利十郎・おとなの寺沢又八舎弟・毛利藤九郎・
  岩越喜三郎を初めとして、歴々五千ばかり討死なり。
                          (『信長公記』)

 信長は、十一歳。
 殺伐とした時代。
 戦(いくさ)に明け暮れる日々。 
 多感な眼に、父の姿は、果たして、どの様に映っていたのだろうか。

斎藤利政は、出家して道三となった。

 天文十四年1545。
 
おそらく、この頃だろう。
 利政は、頭を丸め、詫びを入れた。
 出家して、道三と号す。  

道三は、頼純に従属する姿勢を見せた。

 それにしても、何とも凄まじい人物ではないか。
 今度は、懐柔策をとった。
 篭絡し、油断を誘う作戦に切り替えた。

そして、講和。

 天文十五年1546。
 頼純と、和睦成立。

道三の娘が頼純に嫁した。

 条件の一つだったのだろう。
 道三は、土岐頼純を己の掌の内に取り込んだ。

  次郎殿を聟(むこ)に取り、
                          (「春日文書」)  

   【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 79   


 ⇒ 次へつづく 第85話 12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 



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