本能寺の変1582 第81話 12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第81話 12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代
道三が主の長井氏を殺害した。
同、天文三年1534。
程なくして、恐ろしい事件が起こった。
長井新九郎規秀(道三)が、主人長井景弘を殺害した。
「代々惣領成るを討ち殺し」(「春日文書」)。
主家(長井氏)を乗っ取った。
【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 79
道三の国盗りは、父新左衛門の代から始まった。
太田牛一にとって、それは遠い過去の事件。
牛一は、道三一代で成し遂げたもの、と認識していたようである。
これは、誤り。
一、斎藤山城道三は、元来、山城国西岡の松波と云う者なり。
一年下国侯て、美濃国長井藤左衛門(長弘)を憑(たの)み、
扶持を請け、余(与)力をも付けられ侯。
ここまでは、父、長井新左衛門のこと。
新左衛門は、山城西岡(桂川の西岸地域)の出身で、松波と称していた
らしい。
後、美濃に移り、西村→長井と改姓した。
そして、ここからが、道三(長井新九郎規秀)の部分である
折節、情無く、主の頸を切り、長井新九郎と名乗る。
一族同名共、野心を発し、取合ひ半の刻(きざみ)、
道三は、土岐頼芸を利用した。
頼芸は、人がいい。
「木偶(でく)」
いいように、利用された。
土岐頼芸公、大桑に御在城候を(岐阜県山県市大桑)、
長井新九郎、憑み奉り候ところ、
別状なく御荷担候。
其の故を以て、存分に達す。
(『信長公記』)
頼芸は、道三の野心に気づいていない。
道三は、邪魔者を一人づつ片付けていく。
光秀は、これらのことを知っている。
光秀の少年時代~思春期の頃。
美濃は、この様な状況だった。
光秀は、こういう環境の中で成長した。
土岐頼純の反撃が始まった。
天文四年(1535)
再び、戦いが始まった。
頼純は、大永四年1524の生れ。
この時、十二歳である。
光秀と同じぐらいの年頃である。
【参照】11光秀の年齢 5結論 77
【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 79
朝倉孝景が頼純に援軍を派した。
頼純の母は、孝景の妹である。
美濃は、内乱状態になった。
土岐頼芸・道三 ✖ 土岐頼純・朝倉氏・六角氏
土岐頼芸と頼純が和睦した。
天文六年(1537)
美濃に、平和が訪れた。
「なれど、火種は消えず」
暫し、不安定な状態がつづく。
長井新九郎規秀(道三)は、斎藤新九郎利政に名を改めた。
「彼の者、斎藤同名に成りあかり」(「春日文書」)。
【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 79
頼芸は、六角定頼と手を結んだ。
六角氏は、頼純を裏切った。
六角氏は、定頼→義賢(承禎)→義治とつづく。
定頼は、浅井亮政と対立していた。
浅井氏は、亮政→久政→長政とつづく。
土岐頼純が越前から美濃大桑城に入った。
天文七年(1538)
土岐氏の守護所。
この城が、頼純の居城である(岐阜県山県市)。
織田信秀が今川氏の那古野城を奪い取った。
これは、尾張。
信秀は、この城を本拠とした。
斎藤利政(道三)は、左近大夫を名乗った。
天文八年(1539)
頼芸は、傀儡にすぎない。
道三は、頼芸を擁して、稲葉山城にいた。
そのほぼ真北、およそ三里半(14~5㎞)に大桑城があった。
両城は、ともに山城。
互いに、視認できる位置・距離にあった。
実権は、斎藤左近大夫利政(道三)が握っていた。
しかし、未だ、道半ば。
道三は、策謀の人。
大桑城の頼純が邪魔だった。
⇒ 次へつづく 第82話 12光秀と斎藤道三 2光秀と長宗我部元親
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