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本能寺の変1582 第64話 9光秀という男 7美濃の争乱 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第64話 9光秀という男 7美濃の争乱 

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大永四年1524、美濃。

土岐頼武に、嫡男頼純が誕生した。

 土岐氏の嫡流。
 頼武の後継者である。
 「御家安泰」
 家中は、沸き立ったことであろう。 

大永五年1525、長井長弘と新左衛門が巻き返しを図った。

 同年、六月。
 頼芸派が動いた。
 再び、戦いが始まった。

美濃は、大乱となった。

 同年、八月。
 大規模な合戦が繰り広げられた。

頼芸派が大勝した。

 激戦の末の勝利である。
 長井長弘・新左衛門の大手柄。
 その貢献度は、大きい。 

頼武は、行方知れず(没落)。

 以後、その足跡は消える。
 この戦いで、死去したものと思われる。

 頼純は、まだ二歳。

斎藤利良、死す。

 「于恒宿禰記(ゆきつねすくねき)」によれば、自害したという。

長井長弘・新左衛門が美濃の実権を奪取した。

 小守護代長井氏が守護代斎藤氏に取って代わった。

長井新左衛門は、着々と勢力を伸ばした。 

 その長井氏を牛耳っていたのが、新左衛門。
 道三の父。 

土岐頼芸が美濃の守護に就いた。 

 斯くして、頼芸が新たな美濃の国主となった。
 ここに、ようやく、頼芸の念願が叶った。
 土岐氏にとっては、目出度きこと。
 しかし、・・・・・。

 頼芸は、長井長弘・新左衛門の傀儡にすぎない。
 しかも、新左衛門は、策士・策略家・策謀の人。
 その前途には、暗雲が漂っていた。 

新左衛門は、頼芸の直臣に取り立てられた。

 すなわち、長井長弘と同じ立場になった。 

新左衛門の野心は、止まることを知らず。

 となれば、長弘は邪魔者となる。
 次は、・・・・・。
 恐ろしい時代である。


 
 ⇒ 次へつづく 第65話 10信長の甲斐侵攻 3信長、出陣  



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