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本能寺の変1582 第63話 9光秀という男 7美濃の争乱 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第63話 9光秀という男 7美濃の争乱 

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永正十四年1517、美濃。

 応仁の乱から、50年後の世界。
 戦国時代は、いよいよ、中盤に突入する。

守護代斎藤利良は、嫡男頼武を守護に据えようとしていた。

守護土岐政房は、二男頼芸に跡目を継がせようと考えていた。

 そうなれば、嫡男頼武は廃嫡される。
 利良の心中、穏やかならず。
 失脚の怖れがあった。

長井氏は、頼芸を支持した。

 長弘は、守護代の座を狙った。
 その傍らには、新左衛門がいる

長井新左衛門には、野心があった。

 またとない好機である。
 「心はしをも仕り候て」
 心馳せ=気配り・心配り→気持ちを掴んで・取り入って。
 
「春日文書」を見れば、そうなる。

 若き道三は、父にしたがっていた。

美濃は、頼武派と頼芸派に二分された。

 戦乱の様相が、色濃くなってきた。

  土岐頼武、斎藤利良 ✖ 土岐政房・頼芸、長井長弘・新左衛門

十二月、戦いが勃発した。

 ついに、合戦となった。
 
  去年十二月、美濃の国に於いて、
  守護土岐(政房)と同被官斎藤新四郎(利良)合戦、
  土岐負け、大破に及ぶの間、
                (「宣胤卿記」永正十五年一月五日条)
  

美濃は、内乱状態に陥った。

 家督継承。
 守護の座をめぐる争い。
 さらには、守護代への野望。
 欲望渦巻き、骨肉相食む、血みどろの戦いが始まった。

初戦は、頼武方が勝った。

 しかし、戦いは終わらない。
 まだまだ、つづく。

光秀の明智氏は、頼武方に与した。

 後年の、光秀と越前との関係を考慮すれば、そうなるのではないか。
 となれば、新左衛門・若き道三とは敵対関係にあった。
 
 なお、当時の明智氏は、光秀の父の代であろう。
 また、光秀の存否については、わからない。 

 これにらついては、後述する。

永正十五年1518、再び戦いが起きた。

 同年、夏。

  濃州、去る十日、敗北、
  斎藤新四郎(利良)、土岐子(頼武)を伴い、
  越前堺へ引く、
  
  土岐父は、残ると云々、
  斎藤彦四郎、この間、入国と云々、
               (「宣胤卿記」永正十五年八月十三日条)
 

 斎藤彦四郎は、妙純の子。
 利良の叔父にあたる。
 政房・頼芸に味方した。
 この時は、尾張に逃れていた。

今度は、頼芸方が勝利した。

斎藤利良は、頼武とともに越前へ逃げた。

越前の守護は、朝倉氏である。

当主は、朝倉孝景。

 孝景は、明応二年(1493)の生れ~天文十七年(1548)没。
 母は、斎藤妙純の娘である。
 その縁を頼ったのだろう。
 義景の父である。

孝景は、頼武を庇護した。

 将軍義稙は、これを帰国させるよう、孝景に命じた。
 義稙は、政房・頼芸と繋がっている。
 孝景は、これを拒否した。

  土岐次郎の事、其の国逗留然るべからず候、
  早々、参着せしむるの様、急度(きっと)意見を加ふれば、
  尤も神妙たるべく候なり、

     永正十五
       十二月廿六日
      朝倉弾正左衛門尉とのへ
                         (「御内書案」)

頼武は、孝景の妹を妻とした。

 時期は、不明。
 越前滞在中であろう。 
 やがて、二人の間に、嫡男頼純が生まれる。

光秀は、越前と関係が深い。

 この辺りに、その出発点があったのではないか。

永正十六年1519、ここで、流れが変わった。

 同年、六月十六日。
 土岐政房、死去。
 頼芸がその後を継ぐ。

斎藤利良は、この機を逃さなかった。

 「美濃へ」

朝倉孝景がこれを支援した。

 兵、三千。
 軍勢を派した。

 入国時には、激しい戦いがあった。

  濃州に於いて、新四郎(利良)、越前より入国時、
  両方合戦、死亡の輩、数百人、

  (裏書)
  「 永正十六、九の下旬比(頃)より、
    濃州は、越前より、新四郎入国、
    朝倉合力、同名孫八大将にて、
    山崎衆已下、三千ばかりにて合力 」
                         (「東寺過去帳」)   

斎藤利良は、美濃に帰国した。

 同年、九月。
 利良は、汾陽寺に禁制を掲げた(岐阜県関市武芸川町谷口)。

    禁制         汾陽寺
  一、軍勢乱入狼藉の事、
  一、軍勢押而(おして)執陣の事、
  一、兵粮米を懸ける事、
  一、伐採竹木の事、
  一、放火の事、
   右、若(も)し、違犯有るの輩は、速やかに厳科に処すべき者なり、
   仍って、下知、件(くだん)の如し、

     永正十六年九月日      藤原利良(花押)
                         (「汾陽寺文書」)

土岐頼武が美濃の守護になった。

 朝倉孝景の後ろ楯があればこそ。
 頼武は、その支援を受け、ようやく、帰国することが出来た。 

暫し、平穏がつづく。


 ⇒ 次へつづく 第64話 9光秀という男 7美濃の争乱 




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