見出し画像

本能寺の変1582 第77話 11光秀の年齢 5結論 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第77話 11光秀の年齢 5結論 

はじめに ←目次 ←前回 第76話 

「当代記」には、六十七歳とある。

 すなわち、永正十三年(1516)の生れと言っている。
 しかも、二ヶ所にその記述がある。
 場面は、ともに、山崎の合戦直後。

 一ヶ所目。 

  抑(そもそ)も、明知日向守光秀は、一僕(召使)の者、
  朝夕の飲食さへ乏しかりし身を、

  信長、取り立て給ひ、
  坂本の主として、其の上、丹波国一円、下され、
  懸かる不思議、存立の事、是非に及ばざる次第なり、

  忽(たちま)ち、天責(天罰)を蒙り、
  同(六月)十三日に相果て、跡かたなく成る、
  時に、明知、齢(よわい)、六十七、

 二ヶ所目。

  同六月十三日、合戦、
  明知、則ち、敗北、
  坂本の城に、引き入るべきの旨、存じ歟(か)、
  山科に於いて、逃げ来たり、
  百姓等に打ち殺さるゝ、
  齢(よわい)、六十七、

 しかし、何を根拠としたのだろうか。
 それが、わからない。
 これを裏付けるに足る、信頼できる有力な史料がないのである。

 これでは、あまりにも、高齢に過ぎる。
 そう、思うのだが・・・・・。
 如何、だろうか。

 新たな史料の発見に期待する。

結論として。

 以上、長々と述べてきた。
 ここで、現時点での、私観を申し述べたい。

下限は、五十五歳ぐらい。 

 すなわち、享禄元年1528以前の生れ。

 とすれば、土岐頼純の家臣としては、二十歳以上。
 妻木氏との婚姻時、二十八~三十歳以上。
 信長に出会った頃は、四十一歳以上。

   【参照】11光秀の年齢 1三人の娘 68   
   
【参照】11光秀の年齢 3土岐の随分衆 72   73   

上限は、六十三歳ぐらい。

 光秀は、甲斐遠征に参陣。
 中国攻めにも、出陣を命じられた。
 すなわち、行動力に、問題はなかった。
 とすれば、上限は、六十代の初め頃まで。

 また、邂逅の時、信長は、三十四、五歳。
 その信長が関心を示し得る年代。
 おそらく、それは、四十代まで。
 五十代では、高齢にすぎる。

 以上の観点から、
 上限は、六十三歳。
 永正十七年1520以後の生れ。
 そう、判断した。

 とすれば、
 土岐頼純の家臣としては、二十八歳以下。
 妻木氏との婚姻時、三十六~三十八歳以下。
 信長に出会った頃は、四十九歳以下。
 この辺りがギリギリなのではないか。

光秀の年齢は、五十九±四歳ぐらい。

 光秀は、永正十七年1520~享禄元年1528の生れ。
 五十五~六十三歳ぐらいということになる。

 とすれば、土岐頼純の家臣としては、二十歳以上~二十八歳以下。
 妻木氏との婚姻時、二十八歳以上~三十八歳以下
 信長に出会った頃は、四十一歳以上~四十九歳以下。

 こんなところでないだろうか。


 ⇒ 次へつづく 第78話 11光秀の年齢 6人間形成 



この記事が参加している募集

テレビドラマ感想文

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?