本能寺の変1582 第79話 12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第79話 12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代
1530年代、光秀の少年時代~思春期。
光秀の年齢を、五十九±四歳とすれば、
その生年は、永正十七年1520~享禄元年1528となる。
すなわち、大永四年1524±四年の生れ。
となれば、1530年代=享禄三年1530~天文八年1539、
光秀は、七±四歳~十六±四歳、ということになる。
多感な時期であった。
【参照】11光秀の年齢 5結論 77
長井長弘、死去。
天文二年1533。
長井氏の当主長弘が亡くなった。
嫡男景弘がその跡を継ぐ。
長井新左衛門、死去。
同じ年。
その、少し後。
長井新左衛門が死んだ。
ここで、長井新九郎規秀が表舞台に登場する。
父新左衛門の死により、規秀が家督を引継いだ。
後の斎藤道三である。
信長が生まれる前年のこと。
道三の国盗りは、父子二代にわたるものだった。
父新左衛門が基盤をつくった。
六角承禎が証人である。
以下、「春日文書」に、その来歴に関する記述がある。
なお、同文書は、永禄三年1560、承禎が、家臣らに宛てて書いた
ものである。
前半は、父新左衛門に関する部分。
法花坊主 → 西村 → 長井同名。
長井氏を取り込んでいく様子である。
一、彼の斎治(斎藤治部大輔義龍)身上の儀、
祖父新左衛門慰は、
京都妙覚寺法花坊主落ちにて、西村と申し、
長井弥二郎(長弘)の所へ罷り出で、
濃州錯乱の砌(みぎり)、心はしをも仕り候て、次第にひいて候て、
長井同名になり、
道三が完成させた。
後半は、道三について。
長井 → 斎藤同名。
法花坊主の子倅が、名実ともに、美濃の守護代斎藤氏と同格になった。
また、父左近大夫(道三)、
代々惣領(長井氏)成るを討ち殺し、諸職を奪い取り、
彼の者(道三)、斎藤同名に成りあか(上)り、
道三は、目的のためには、手段を選ばぬ男だった。
正に、下剋上の化身。
そのもの、である。
恐ろしい時代の、恐ろしい人物だった。
剰(あまつさ)え、次郎殿(土岐頼純)を聟(むこ)に取り、
彼が早世候て後、
舎弟八郎殿へ申し合はせ、井口へ引き寄せ、
事に左右をよせ、生害させ申し、
其の外の兄弟衆、或いは毒害、或いは隠害にて、
悉(ことごと)く、相果て候、
其の因果歴然の事、
(「春日文書」永禄三年七月二十一日付六角承禎条書第三条)
なお、守護土岐頼芸の追放については、後述する。
⇒ 次へつづく 第80話 12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代
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