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本能寺の変1582 第80話 12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第80話 12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 

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尾張では、織田信秀が勢力を拡大していた。

 天文二年1533、七月八日。
 山科言継は、尾張にいた。
 勝幡にて、信秀に会う。
 信長の父である。

 信秀は、津島を支配していた(愛知県津島市)。
 商業地域である。
 「三郎」とは、信秀のこと。

  八日、己酉(つちのととり)、天晴、
  今日、五つ時分(8時頃)、桑名を立ち、舟に乗り、
  八つ時分(14時頃)に、尾張国津島(五里余り)へ付き候ひおわんぬ、

  則ち、飛鳥井より織田三郎方へ、速水兵部を遣はされ候、
  軈(やが)て、織田大膳、使ひに来たり、

 信秀は、勝幡城を居城としていた(愛知県安西市~稲沢市)。
 言継を歓待した。

  七つ過ぎ時分(16時頃)、同三郎、迎いとて、来たる、
  則ち、彼の館(在所名勝幡)へ罷りむかひ、馬に乗る、
  三郎、乗らず、跡に来候ひおわんぬ、

 信秀は、経済力を背景に勢力を拡大した。
 言継は、城の規模・出来栄えに驚いた。

  夜半時分、冷麺・すい物等にて一盞(いっさん=飲食)候おわんぬ、
  飛鳥より、馬・太刀遣はされおわんぬ、
  則ち、城の内、新造に移り候ひおわんぬ、
  未だ、移徒(わたまし=移転)せざるの所なり、
  驚目候ひおわんぬ、
                          (「言継卿記」)

織田氏のルーツは、越前にあった。

 織田氏発祥の地は、越前織田荘である(福井県丹生郡越前町織田)。
 同地には、「織田劔神社」が鎮座している(「織田明神」とも)。
 織田氏の氏神である。
 同氏は、神官の末裔とされる。 
 信長は、この神社に対して、尊崇の念をもって、きわめて大切に、
 かつ丁重に接している。
 
 織田氏は、元々、越前の守護、斯波氏の守護代だった。
 斯波氏が尾張の守護を兼任することになったことにより、
 守護代として、尾張に移住した。

 信長の織田氏は、その支流である。
 代々、守護代家に仕え、奉行を務めた。
 したがって、斯波氏の陪臣にすぎない。
 すなわち、守護の家臣の、そのまた家臣。
 祖父信定・父信秀・信長と、「弾正忠」を名乗った。

尾張は、八郡。

 当時、尾張は、上郡と下郡の二つに大きく分かれていた。
 上郡は丹羽・葉栗・春日井・中島の四郡、
 下郡は海東・海西・愛知・知多の四郡、
 合わせて八郡である。

  さる程に、尾張国は八郡なり。 

尾張の守護は、斯波義統。

 守護は、斯波氏。
 当代は、義統である。
 斯波氏は、代々、当主が兵衛督・兵衛佐(唐名武衛)に任ぜられ、
 そのことから武衛家と称されていた。

上四郡は、岩倉織田氏。

 上四郡の守護代が織田伊勢守家。
 当主は、信安。
 岩倉城を本拠とした(愛知県岩倉市下本町)。

  上の郡四郡、
  織田伊勢守、諸将手に付け、進退して、岩倉と云ふ処に居城なり。

下四郡は、清洲織田氏。

 下四郡の守護代が織田大和守家。
 当主は、達勝。
 こちらは、清洲城に拠った(愛知県清須市朝日城屋敷)。

 義統は、大和守とともにこの清洲城にいた。
 斯波氏は、すでに昔日の力を失っており、傀儡と化していた。

  半国、下の郡四郡、
  織田大和守が下知に随へ、上下、川を隔て、清洲の城
  に武衛様を置き申し、大和守も城中に侯て、守り立て申すなり。
                          (『信長公記』)
 

信長の織田弾正忠家は、清洲織田氏の家老だった。

 やがて、信長は、この清洲織田氏を滅ぼす。
 さらに、岩倉織田氏をも滅亡へと追い込む。
 そして、尾張一国を手に入れる。

信長は、下剋上の申し子。

 正に、道三以上。
 下剋上に次ぐ下剋上。
 恐ろしい人物が、あちらにも、こちらにもいた。

信秀は、尾張随一の実力者に成り上がった。

 なかなかの人物だったようである。
 清洲織田家の一家老が尾張を代表する実力者にのし上がった。
 実質的な尾張の覇者。
 その勢力は、守護・守護代家を優に超えるものだった。  

  備後殿は、取り分け器用の仁にて、
  諸家中の能き者と御知音(=親しく交わること)なされ、
  御手に付けられ、
                          (『信長公記』)

信長が生まれた。

 天文三年1534、五月十二日。
 信長、誕生。

 フロイスは、六月二日(本能寺の変)の十九日前と言っている。
 五月は、小の月(二十九日まで)。
 逆算すれば、そうなる。

  而して領内の諸国に布告し、市町村においては男女貴賤悉(ことごと)く
  彼の生まれた五月の日にかの寺院の来って同所に収めた己の神体を拝む
  ことを命じた。

  諸国より集まった人数は非常に多く、ほとんど信ぜられざるもので
  あった。

  信長がかくの如く驕慢となり、世界の創造主また贖主であるデウス
  のみに帰すべきものを奪はんとしたため、
  デウスはかくの如く大衆の集まるを見て得たる歓喜を長く享楽させ
  給はず、
  安土山においてこの祭りを行った後十九日を経て、
  その体は塵となり灰となって地に帰し、
  その霊魂は地獄に葬られた‥‥(略)。
                     (「イエズス会日本年報」)


 ⇒ 次へつづく 第81話 12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 



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