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本能寺の変1582 第82話 12光秀と斎藤道三 2光秀と長宗我部元親 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第82話 12光秀と斎藤道三 2光秀と長宗我部元親 

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土佐に、長宗我部元親が生まれた。

 同、天文八年(1539)
 四国、土佐。
 長岡郡岡豊城にて。
 長宗我部国親に、嫡男元親が誕生した。
 幼名、弥三郎。
 後、宮内少輔を称す。
 信長より、五つ年下である。

元親は、光秀を仲介者として信長に誼を通じた。

 後年のことである。
 それ故、光秀との関係が深い。

  次に、字(あな)ざの儀、信を遣はし候、
             (「土佐国蠧簡集」「織田信長文書の研究」)

   【参照】8光秀の苦悩 6守るべき者 50   

元親と本能寺の変。

 その一因となった。

  猶、三好山城守(康長)、申すべく候也、
                      (「香宗我部家伝証文」)

   【参照】8光秀の苦悩 6守るべき者 50   

 これらについては、後述する。

長宗我部氏の先祖について。

 長宗我部氏は、秦の始皇帝の末裔であると云う。
 渡来人秦氏の流れを汲む一族とされる。

  抑(そもそ)も、長曽我部宮内少輔秦元親卿の系図、家の根源は、
  元祖太唐人、秦始皇六代孫の流れなり、
  日本に渡海し、初めは信濃の国に住す、
  この人、文に達し、武に勝る、
  連々、叡聞あり(天皇がお聞きになった)、
  人王十四代仲哀天皇の御宇(=御代)、召されて上洛せしむ、
  詔(みことのり)あり、大学寮、先ず儒才を試され、作文を献策す、
  尤も叡感あり(天皇がお褒めになった) 、
  此の時、秦氏を号されおわんぬ、


 聖徳太子(574~622)の時代。
 秦川勝の子孫が土佐に移り住んだ。  

  爾(=それ)以後、聖徳太子、守屋(物部)逆臣を誅罸し、
  仏法を広めんと欲し、海内(かいだい=天下)を給はんとせし時、
  厥(その)十五代末孫秦川勝大臣広隆、一方の大将軍なり、
  その末葉、当国の国司を賜ふ、
  則ち、長宗我部領、江村郷・廿枝郷・野田・大埇・吉原、
  都合三千貫領地すべき旨、頂戴し、輪(綸)旨・御盃を給ふ、

                           (「元親記」)

長宗我部氏の家紋について。

 家紋は、鳩酢草(カタバミ)である。
 そのいわれについて。

  その御盃の中に、鳩酢草と云ふ草葉一つ浮き、これを飲む、
  此の故を以って、鳩酢草を家の紋に定むと云ふ、

元親は、長宗我部氏の二十一代目という。

 初代を能俊(よしとし)と云う。

  家の初めは、能俊と申す、

  扨(さて)また、十一代目信能の代、
  尊氏(足利)将軍召され、御代最前(真っ先に)御味方に参ず、
  恩賞、一かたならず、
  爾来、代々武勇の家なり、


 その二十一代が元親である。

  七郡の侍、皆隔心し、
  已(すで)に当家を取り消すべしとせしこと、
  数度に及ぶの由、昔語りに伝え聞く、

  然りといえども、冥加天道に叶う哉、
  数代を経て、元親卿まで廿一代とあり、
                           (「元親記」)

幼少期の元親について。

 幼少期は、姫若子と呼ばれ、柔和な性格だったという。
 だが、長じて後一変、土佐の出来人といわれる人物になる。

  此の元親は、生得背高く色白く、
  柔和にして、器量・骨柄天晴類なしと見えながら、
  要用のほかは物いふことなく、人に対面しても会釈もなく、
  日夜深窓にのみ居給ひければ、姫若子と異名をつけて、
  上下囁き笑ひけり、
                          (「土佐物語」)


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