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本能寺の変1582 第83話 12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第83話 12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 

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1540年代、光秀の青年時代。

 天文九年1540~天文十八年1549。
 光秀、十七±四歳~二十六±四歳の時期。

   【参照】11光秀の年齢 5結論 77   
   【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 79   

織田信秀と今川義元の戦いが始まった。

 天文十一年1542
 今川の軍勢が、西三河に攻め入った。
 義元は、尾張への進出を企んでいた。

 信秀、出陣。
 これを迎え撃った。
 信秀は、三河を狙っていた。

第一次小豆坂の合戦。

 同年、八月。
 両勢力が激突した。
 信秀は、三十一~三歳(諸説あり)。
 信長が九歳の時。

  八月上旬、
  駿河衆、三川の国正田(生田)原へ取り出で、七段に人数を備へ候。
  其の折節、
  三川の内、あん城(安祥)と云ふ城、織田備後守かゝへられ侯ひき。
  駿河の由原(いはら=庵原)、先懸けにて、あづき坂へ人数を出だし侯。  

織田方の勝利である。

 信秀は、激戦のすえ今川勢を撃退した。 

  則ち、備後守、あん城より矢はぎ(作)へ懸け出で、
  あづき坂にて、
  備後殿御舎弟衆、与二郎殿・孫三郎殿・四郎次郎殿を初めとして、
  既に、一戦に取り結び相戦ふ。

  其の時、よき働きせし衆。
  織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿。
  織田造酒丞(みきのじょう)殿、是れは鎗きず被(こうむ)られ、
  内藤勝介、是れはよき武者討ちとり高名、
  那古野弥五郎、清洲衆にて侯、討死侯なり。
  下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦右衛門・
  神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助。
  三度四度かゝり合ひ、々々々々々、折りしき(頻)て(繰り返して)、
  各(おのおの)手柄と云ふ事限りなし。

  前後(この頃から)、きびしき様体是れなり。

  爰にて、那古野弥五郎が頸は由原討ち取るなり。
  是れより駿河衆人数打ち納れ侯なり。
                          (『信長公記』)

信長は、この戦いを忘れない。

 信長は、この戦いについて、幾度となく、話を聞かされたことだろう。
 現代で言えば、小学1~2年生である。
 その事が深く脳裏に刻み込まれた。
 そして、それは、永禄三年1560へ。
 「桶狭間の戦い」
 
へと繋がっていく。
 これから、十八年後のことになる。
 その時、信長は二十七歳に成っていた。

徳川家康、生まれる。

 同年、十二月、。
 岡崎城主松平広忠の嫡男として誕生。
 母は、刈谷城主水野忠政の娘。
 永禄九年1566、松平姓を徳川に改めた。

織田信秀が内裏に修理費四千貫を献上した。

 天文十二年1543 
 二月。
 噂が、奈良に流れた。
 多聞院英俊は、その額の大きさに驚いている。

  十四日、
  一、或る人、ヽ、内裏の四面の築地の蓋(かさ)を、
    尾張のをた(織田)の弾正と云ふ物(者)、
    修理して進上申すべきの由、申し、
    はや、料足四千貫計り計上と云々、
    事実に於いては、不思議の大営(行い)歟(か)、
                         (「多聞院日記」)

信秀には、経済力があった。

 信秀は、尾張の商業地帯を握っている。

   【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 80       

鉄炮伝来。

 同年、八月。
 信長が十歳の時である。

 薩摩島津家に仕えた禅僧南浦文之(なんぽぶんし)の著作、
 『鉄炮記』によれば、
 天文十二年八月、乗員百余人の大船(ジャンク)が種子島に漂着し、

  天文、癸卯(みずのとう)、秋、八月二十五日、丁酉(きのととり)、
  我が西村の小浦(小さな入江)に一大船有り、
  何れの国より来たれるかを知らず、
  船客百余人、
  その形、類せず(風貌が似ていない)、
  その語、通ぜず、
  見る者、以って、奇怪と為す、


 それに乗っていたポルトガル人が「鉄炮」伝えたという。

  手に、一物を携ふ、
  長さ、二、三尺、
  その体(てい)為(た)るや、中は通り、外は直(なお)くして
  重きを以って、質と為す、

  其の中は、常に通ずと雖(いえど)も、
  其の底は、密(きび)しく塞(ふさ)がんことを要す、
  其の傍(かたわ)らに、一穴あり、
  火を通ずるの路(みち)なり、
  形象、物の比倫(=比類)すべきなきなり、

  其の用為(た)るや、妙薬(火薬)を其の中に入れ、
  添ふるに小団鉛(弾丸)を以ってす、
  先ず、一小白(小さい的)を岩畔に置き、親(みずか)ら、一物を手にし、
  其の身を修め、其の目を眇(すが)めにして、其の一穴より火を放てば、
  則ち、立ちどころに、中(あた)らざる莫(な)し、
  

斯くして、日本と西欧が繋がった。

 歴史的瞬間である。


 ⇒ 次へつづく 第84話 12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 


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