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本能寺の変1582 第90話 12光秀と斎藤道三 5光秀の三十代 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第90話 12光秀と斎藤道三 5光秀の三十代 

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1550年代、光秀の三十代。

 天文十九年1550~永禄二年1559。
 光秀、二十七±四歳~三十六±四歳の時期。

  【参照】11光秀の年齢 5結論 77   
  【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 79   
  【参照】12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 83   

この頃、鉄砲が普及し始めていた。

 天文十九年1550。
 同、七月。
 京である。
 細川晴元軍と三好軍の間に、市街戦があった。
 この戦いで、鉄炮*による戦死者が初めて記録された。 

  十四日、丙午(ひのえうま)、天晴、天一天上、
  三好人数、東へ打ち出で、見物、
  禁裏築地の上、
  九つ過ぎ時分迄、各(おのおの)、見物、

  筑前守(三好長慶)は、山崎に残ると云々、
  同名日向守・きう(弓)介・十河民部太夫(一存)以下
  都合一万八千と云々、
  一条より五条に至り取り出で、
  細川右京兆人数、足軽百人計(ばか)り出合わせ、野伏これ有り、
  きう介与力一人、鉄━(鉄炮)に当たり死すと云々、
                          (「言継卿記」)

  *鉄炮伝来。『鉄炮記』
   【参照】第83話 12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代

土岐頼芸は、まだ守護の座にあった。

 同年十月。
 室町幕府は、美濃の土岐頼芸に、来正月の垸飯(おうばん=饗応)のため、
 要脚(=費用)を命じた。
 この時点で、幕府は、頼芸を美濃の国主と認識していた。

  十日、幕府、美濃土岐某ヲシテ、明年ノ垸飯要脚ヲ進メシム、
                          (「史料綜覧」)

道三は、頼芸を追放した。

 その、直後のことなのだろう。
 同十月~十一月初め頃である。

下剋上、成る。

 道三は、美濃を奪い取った。
 父子二代の下剋上。
 ここに、成る。 

  父土岐頼藝公、大桑(おおが)に御座侯を、
  家老の者どもに属託をとらせ(仕事を頼んで任せること)、
  大桑を追ひ出し侯。

  それより、土岐殿は、尾州へ御出で侯て、
  信長の父の織田弾正忠を憑みなされ侯。

道三の下剋上に対する世人の評価。

 辻々に、落首が立てられた。
 人々は、道三を、その昔、源義朝(頼朝の父)を殺害した長田忠致(ただむね)
 に比した。

  爰にて、何者の云為哉(しわざやらん)。
  落書に云く、

   主をきり聟をころすは身のおはり、
      むかしはおさだ、いまは山しろ、

  と侍り、
  七まがり、百曲に、立て置き侯ひし。

道三の人生は、乗っ取りの連続だった。

 先ず、小守護代長井氏を乗っ取り。
 次に、守護代斎藤氏の名を名乗り。
 最後に、守護土岐氏から美濃一国を乗っ取った。

  恩を蒙り恩を知らざるは、樹鳥、枝を枯らす、に似たり。

 太田牛一は、冷酷非道の人物だったと言っている。

  山城道三は、小科の輩(ともがら)をも牛裂きにし、
  或ひは、釜を居ゑ置き、其の女房や親兄弟に火をたかせ、
  人を煎(に)殺し、事冷敷(すさまじき)成敗なり。
                           (『信長公記』)


 ⇒ 次へつづく 第91話 13上総介信長 1信秀の死 


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