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本能寺の変1582 第91話 13上総介信長 1信秀の死 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第91話 13上総介信長 1信秀の死 

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織田信秀、没。

 天文二十一年1552。 
 同、三月三日。
 信秀、末盛城にて没す。
 享年、四十二。

 正に、壮年、真っ盛りであった。
 「尾張の虎」
 と、畏怖された男。
 卓越した統率力。 
 尾張は、一つに纏まったかに見えた。
 
 そこに、無情の風、一陣。
 信秀は、病に斃れた。
 加持・祈祷、霊験、灼(あらた)かならず。
 手厚い治療の甲斐も無く。
 終に、不帰の人となる。
 早すぎる死。
 呆気ない最期。
 志、半ばであった。
 法名、萬松院殿桃厳道見大禅定門。

  一、備後守殿、疫癘(えきれい)に御悩みなされ、
    様々の祈祷、御療治侯と雖も、御平愈なく、
    終に、三月三日、御年四十二と申すに、御遷化。
    生死無常の世の習ひ、悲しきかな。
    颯々(そうそう)たる風来たりては、万草の露を散らし、
    漫々たる雲色は、満月の光を陰(かく)す。

信長、この時十九歳。

 今ならば、高校三年生(満十八歳)。
 信長は、戦国の荒海に抛り出された。 

本能寺の変の、ちょうど30年前のこと。

 十九歳 + 30年 = 四十九歳。
 信長は、この30年を駆け抜けた。

葬儀は、万松寺で執り行われた。

 信秀の葬儀は、曹洞宗、亀岳林・万松寺で盛大に執り行われた。
 寺は、那古野城の南半里にある。
 信秀が、織田家の菩提寺として建立した寺であった。

  去(さ)て、一院御建立、万松寺と号す。
  当寺の東堂(=前住職)、桃巌と名付けて、銭施行をひかせられ、
  国中の僧衆集いて、生便敷(おびただしき)御弔いなり。
  折節、関東上下の会下(えげ=修行)僧達、余多これあり。
  僧衆、三百人ばかりこれあり。

  三郎信長公、林・平手・青山・内藤、家老の衆、御伴なり。

  御舎弟勘十郎公、家臣柴田権六・佐久間大学・佐久間次右衛門・
  長谷川・山田以下、御供なり。                          

信長は、仏前へ抹香を投げつけた。

 これが信長流。
 名場面である。

  信長、御焼香に御出で。
  其の時の信長公、御仕立、
  長つかの大刀、わきざしを三五(みご)なわにてまかせられ、
  髪はちやせんに巻き立て、袴(はかま)もめし侯はで、
  仏前へ御出でありて、
  抹香をくはつと御つかみ侯て、仏前へ投げ懸け、御帰り。

 信勝は、品行方正。

  御舎弟勘十郎は、折目高なる肩衣、袴めし侯て、
  あるべき如きの御沙汰なり。

 信長は、「大うつけ」。

  三郎信長公を、例の大うつけよと、執々(とりどり)評判侯ひしなり。
  其の中に、筑紫の客僧一人、
  あれこそ、国は持つ人よと、申したる由なり。

                           (『信長公記』)

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