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本能寺の変1582 第89話 12光秀と斎藤道三 4大うつけ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第89話 12光秀と斎藤道三 4大うつけ 

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信長は、藤原氏を称した。

 以下は、信長が尾張熱田八ヶ村に宛てた制札。
 信長の初見文書とされる。
 この中に、「藤原信長」、とある。
 信長の織田氏は、元々「藤原」の姓だった。

      制札            熱田八ヶ村中

  一、当社御造営のために、宮中に人別を収めらるべし、
    然る上は、国次(なみ)棟別幷(ならび)に、他所・他国の諸勧進を
    停止せしむるの事、

  一、悪党現形(げんぎょう=悪事)に於いては、
    届けに及ばず成敗すべきの事、

  一、宮中、先例に任せ、他国・当国敵味方幷(ならび)に奉公人、
    足弱、同預ヶ物等、改めべからざるの事、

    付けたり、宮中へ出入りの者え、路地に於いて、非儀(=無理)を
    申し懸くるの事、

  一、宮中え使事は、三日以前□□幷に其の村へ相届け、糾明を遂げ、
    其の上難渋に就いては、譴責使を入るべきの事、

  一、俵物(=米俵)留の事、前々の判形の旨に任せ、宮中え相違なく
    往反の事、

    右条々、違犯の輩(ともがら)に於いては、速やかに厳科に処す
    ものなり、
    仍って、執達件の如し、
  
      天文十八年十一月 日         藤原信長(花押)
                      (「織田信長文書の研究」)

信長は、後に、藤原氏から平氏に改姓する。

 元亀二年1571、信長が、白山別宮に寄進した鰐口の銘文に
 「平信長」、とある。
 
 これについては、後述する。 

信秀と清州の間に、和議が成立した。

 同、天文十八年。
 秋の終わり頃。
 
平手政秀の努力が、ようやく、実を結んだ。
 清州織田氏との間に、和議が結ばれた。

  翌年、秋の末、互いに屈睦して無事なり(互いに譲歩して和睦した)。

 政秀は、なかなかの風流人であったようである。
 これを祝し、清須の宿老らへ送った書状の中に紀貫之の一首を添えた。

  其の時、平手、
  (清州の)大膳・甚介・河尻かたへ、和睦珍重の由侯て、書札を遣はし、
  其の端書に古歌一首これあり。


   袖ひぢて、結びし水のこほれるを、春立つけふの、風や解くらん*、

  と候へつるを覚え候。

  か様に、平手中務は、
  借染(かりそめ)にも、物毎(事)に、花奢(風雅)なる仁にて候ひし。
                          (『信長公記』)

  
  *袖を濡らして掬った水が凍ったのを、立春の今日の風が溶かす
   のだろうか(「古今和歌集」紀貫之)。


 ⇒ 次へつづく 第90話 12光秀と斎藤道三 5光秀の三十代 



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