本能寺の変1582 第88話 12光秀と斎藤道三 4大うつけ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第88話 12光秀と斎藤道三 4大うつけ
信長の青春時代。
結婚した頃の信長である。
信長、十六、七、八までは、別の御遊びは御座なし。
馬を朝夕、御稽古、
又、三月より九月までは、川に入り、水練の御達者なり。
其の折節、竹鎗(やり)にて扣(たた)き合ひを御覧じ、
兎角、鎗はみじかく候ては悪しく侯はんと仰せられ候て、
三間柄(え)、三間々中柄などにさせられ、
身なり、風体。
其の比(ころ)の御形儀(ぎょうぎ)、
明衣(ゆかたびら)の袖をはづし、半袴、
ひうち袋、色々余多(あまた)付けさせられ、
御髪は、ちやせん(茶筅)に、くれなゐ(紅)糸・もゑぎ(萌黄)糸にて
巻き立て、ゆわせられ、
大刀、朱ざやをささせられ、悉(ことごと)く朱武者に仰せ付けらる。
内に秘めた思いがあったのだろう。
日夜、弓・鉄砲・兵法・鷹狩など戦稽古に明け暮れていた。
市川大介めしよせられ、御弓御稽古。
橋本一巴を師匠として、鉄炮御稽古。
平田三位を不断召し寄せられ、兵法御稽古。
御鷹野等なり。
信長は、大うつけと言われていた。
映画に出てくる有名な部分である。
異端の者だったのだろう。
爰(ここ)に見悪(みにく)き事あり。
町を御通りの時、人目をも御憚(はばか)りなく、
くり・柿は申すに及ぱず、瓜をかぶりくひ(食)になされ、
町中にて、立ちながら餅をほおばり、
人により懸かり、人の肩につらさがりてより外は、
御ありき(歩く)なく侯。
其の比(ころ)は、世間、公道(礼儀作法をきちんとすること)なる
折節にて候間、
大うつ気とより外に申さず候。
信秀は、末盛城へ移った。
天文十八年1549、秋。
おそらく、この頃だろう。
信秀は、新たに末盛城を築いた(愛知県名古屋市千種区城山町2丁目)。
自らは、そこへ入る。
一、去る程に、備後殿、古渡の城破却され、
末盛と云う所へ山城をこしらへ、御居城なり。
(『信長公記』)
信秀は、今川義元を警戒していた。
新城は、古渡城の東方一里半(6km)の位置にある。
義元の西方進出に備えた。
信秀が病床についた。
勢力、減衰。
その上、病。
「弱り目に、祟り目」
そして、信長はまだ若い。
信長が政務の一部を代行した。
この頃からである。
信長の前途には、大きな波乱が待ち受けていた。
⇒ 次へつづく 第89話 12光秀と斎藤道三 4大うつけ
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