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本能寺の変1582 第86話 12光秀と斎藤道三 4大うつけ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第86話 12光秀と斎藤道三 4大うつけ 

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第二次小豆坂の戦い。

 天文十七年1548。 
 義元は、三河から、織田の勢力を一掃しようとしていた。

 同、三月。
 再戦。

  十九日、今川義元、松平広忠の為ニ、崇孚(太原)ヲシテ、
  三河ニ於ケル織田信秀ノ属城ヲ攻略セシム、
  是日、信秀、之ト同国小豆坂ニ戦ヒテ、敗績ス
                          (「史料綜覧」)

信秀は、劣勢に立たせられた。

 前に、義元。
 後ろに、道三。
 信秀は、強敵に挟まれた。 

 *「小豆坂の戦い」は、これまで、天文十一年・同十七年の二度あった、
  とされてきた。
  果たして、本当に、そうなのだろうか。
  近年では、十七年一度説の方が有力視される傾向にあるという。
  しかし、その内容が、あまりにも大きく食い違う。
  一度なのか、二度なのか。
  それを、決定づける確たる史料がない。
  したがって、真偽のほどは、わからない。
  故に、ここでは、従来の二度説をとった。
  新史料の発見を待つのみ、である。

   【参照】12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 83   

越前の朝倉孝景が死んだ。

 同、三月二十二日。
 享年、五十六歳。

  廿二日、越前守護朝倉孝景卒ス、

朝倉氏は、義景の代になった。

 同、九月九日。
 義景は、天文二年1533の生れ。
 この時、十六歳。
 代替わりの礼物を献上した。

  九日、
  越前守護朝倉延景(義景)、家督相続ノ御礼物等ヲ献ズ、
                          (「史料綜覧」) 

信秀は、西美濃大垣城に兵を配置していた。

 城将は、織田播磨守。
 名は、不明。

  先年、尾張国より濃州大柿(垣)の城へ、織田播磨守入れ置かれ侯事。

道三が大垣城を攻めた。

 同年、十一月。
 四年前、道三は、稲葉山城下で織田軍に大勝した。

  【参照】12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 84   

 そのことがあった。
 美濃勢は、勢いづいていた。
 「国盗り」
 すなわち、美濃一統。
 道三は、織田方の手にある大垣城を攻めた。

  去る(天文十三年)九月廿二日、
  山城道三、大合戦に打ち勝つて申し様に、
  尾張者は、あしも腰も立つ間敷候間、
  大柿を取り詰め、此の時攻め干すべきの由にて、
  近江のくにより加勢を憑み、

  霜月上旬、大柿の城近々と取り寄せ候ひき。


 ここで、不思議なことが起きた。

  爰に希異の事あり。
  去る(天文十三年)九月廿二日の大合戦の時、
  (討死した)千秋紀伊守、(藤原)景清所持のあざ丸を最後にさゝれたり。

  此の刀、(斎藤方の)陰山下掃部助、求め、さし候て、
  西美濃大柿の並び、うしや(牛屋)の寺内とてこれあり。
  成敗に参陣候て、床木に腰をかけ、居陣のところ、
  (織田方が)さんざんの悪しき(=強力な)弓にて、
  木ぼう(棒=矢じりの一種)をもつて、
  城中より虚空に、人数備へ(斎藤方)の中へ、くり懸け侯へば、
  陰山掃部助左のまなこにあたる。
  其の矢を抜き侯へば、又、二の矢に右の眼を射つぶす。

  其後、此のあざ丸、惟住五郎左衛門(丹羽長秀)所へ廻り来たり。
  五郎左衛門、眼病、頻(しきり)に、相煩ふ。
  此の刀所持の人は、必ず目を煩ふの由、風聞侯。
  熱田へまいらせられ然るべしと、皆、人毎に異見侯。
  これにより、熱田大明神へ進納侯てより、
  即時に、目もよく罷(まか)り成り侯なり。
                          (『信長公記』)

 ⇒ 次へつづく 第87話 12光秀と斎藤道三 4大うつけ 










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