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苦しい、助けてと言えないのはなんでだろう。

言葉にするのが恥ずかしいのかな、言うだけ意味ないと思ってるのかな。

それとも、助けてもらうだけの価値が自分にないと感じてる?

そもそも、そういったことは言葉に出すべきじゃないと考えてるのかな。

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じゃあ、助けを求めてみた時のメリット・デメリットはなんだろう。

考えられるメリットは、
助けてもらえる可能性が言わない時より上がるから、状況が何かしら変わるかもしれないね。

他にも人に言うことで得られるカタルシスもあるし、聞いてもらえたり助けてもらってひとりじゃないこと確認できるとか色々あるんだろうな。

考えられるデメリットは、
聞いてもらえなくて悲しくなったりするかもしれない。

バカにされるかもなのもあるかな。

少し考えてみたんだけど、私がのんきになったからなのか、信じられる相手選べばそうデメリットって無いんじゃないかと思ってしまったよ。

バカにされるとか良くないことにされると思うのも、相手がそうする人間だと自分で判断してる時もあるんだろうから、本当にその人はそんな人なのかを改めて考えてみたいよね。

事実毒親たちなど一定数は人に害なすタイプも居るから、そういう人には助け求めないのは大切だけど、相手の人間性を再度考えてみて、害なすタイプじゃなければ助けを求めるのもひとつの手なのかなと自分に言い聞かせてみています。

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あとは助けを求めるのか恥ずかしいのはどうしたら克服できるかな。

うーん、恥ずかしいってなんだろうね。

恥ずかしいというのは自分が恥ずべき行為した・しそうと感じた時に起こる感情なんだろうから、やっぱり自分で自分をどう見てるか次第ということになるっぽいね。

そこはまた別回で掘り下げるとして、自分がそう思ってしまってるということに気付けた時、乗り越えられる感情な気がするな。

あとは怖いとかの感情はきっと、大元は自分を信じられてないから、自分が認識することで成り立つ世界も信じられなくて、その世界の他人も信じられないから起こることなのかもしれないな。

そうすると、結局最後は全部自分次第じゃんっていつもの結論に至ってしまうね。

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今度試しに一度、助けを求めるのが下手なんだって悩みを言ってみよう。

助けを求める感じにしないボヤきちっくなら、重たさ減る感じするし、自分的にも言いにくさは軽くなりそう。

SNSで不特定多数に言うのでなくて、この人ならと信用できそうと思える人にボヤきつつ悩み伝えてみることから練習。

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もし“信用できる人が居ない”と言う人が居るなら、そこはさっき書いたみたいに自分を信じることから必要だろうから、認知療法とかで認識の歪みを取っていくことからスタートなのかな。

どのルートからだとしても、近道はないだろうから、やるしかないんだよなぁ。

うん、ひとまず人選んでボヤいてみることから練習だ。

生きづらさ応援の活動をしています。