期待を持つのは私の都合だし、それを叶えるかは相手の都合。
昔お付き合いしいてた方に、私にとって大切な価値観である健康的で穏やかな幸せな毎日を望んで、そうしてくれることを期待しました。
でもその人は訳あって幸せに恐怖を感じる人だったし、幸せにならないために健康的でないような生活を好む人だったから、私は一緒に居て苦しかったのです。
そうなってしまう理由も知っていて理解は出来たから、ゆっくり変わっていって欲しかったけど、その変わることも期待だし彼との健康穏やか生活と期待ということだったんだよね、それでも叶えられずたったのです。
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期待を持つことと、それを相手が叶えるかは別の問題なのに、長いことそれに気付かず叶わない期待に悲しくなってました。
私のケースだと健康や幸せを願ってるから一見間違いないように見えるけど、彼にとっては怖いことだったので私の願いは叶えられない。
過去の経験を元にて作られた各々の考え方や価値観があって、彼は幸せが怖いという少し特殊なケースかもしれないけど、往々にして自分が正しいと考えてることを相手が必ずしもそう考えるとは限らないと、振り返って今なら思うのです。
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期待を持つのは私の都合。
それを叶えるかは相手の都合によって変わるね。
そこを履き違えていると、何で私の思うように(期待するように)動いてくれないの!と爆発したくなるけど、そこは私が勝手に期待してるだけなんだよね。
ただ、今まで誰かにかけられてきた期待を一心に叶えようとしてきた人は、それを正しい・当たり前のことだと思っていて、みんな(他者)もそうするはずと思ってることが多いんじゃないかな。
“かけられた期待というのは叶えるべきもの”とか思っているのかもしれない。
私もそう思ってたので、その心理はすごくよく分かるんだけど、でもどうやら違うみたいなんだよ。
実際私も数年前まで、他人と自分の違いが頭ではなんとなくわかってたんだろうけど、体感としては全然理解してなくて、自分と自分じゃないものの境界がない感覚の人間だったので(これはHSPの人に多いかもしれない)、ほとんどの人が自分と同じように考えるだろうし、自分と同じように行動するものだと思ってたから、そうならない時にとても戸惑いがあったのです。
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だけど、自分と他人は違う生き物だし考え方もそれぞれ持っていることを体感としても学んで知ってから、期待をかけたくなる自分にストップをかけやすくなりました。
期待して叶えてもらえなかった自分がいたとしても、そこは相手の都合と一致しなかっただけで、そのことで私自身の価値や尊厳や何かが損害されたわけではないし、大丈夫だよ安心してって自分に言ってあげられやすくなりました。
人間いろんな価値観があって、一見自分にはよくないように見えても相手には必要なことだったりするし、そういう違いごとお互いに尊重しあいながら生きていけたらいいなと思うのです。
生きづらさ応援の活動をしています。