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あなたへの情は密なのに、それ以外に薄くなるのは薄情なの?

大切な人、知り合い、同僚、恋人、クラスメイト、師匠、取引先の人、ご近所さん。
私たちは様々な関係性の中で生きていて、その他者へ、情や想い・心配りをどれだけ、どんな風に分配させて注いで生きてるか。

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今日も風埜いろはさんの投稿で響くものがありました。
いつも素敵なインスピレーションをくださってありがとうございます。

先日、ブルーインパルスが空を駆けた。
以前勤めていた職場の先輩が、その様子を動画で送ってきてくれたのだ。
(中略)
いつも面倒を見てくれて、可愛がってくれる大好きな先輩。
だけど…。
もし逆だったら私は同じことをしただろうか。
つまり、ブルーインパルスを見たのが私で、おそらく見ていないだろう先輩に、動画を撮って送るということをしたのか自信がないのである。
もし、変わったものを見た時、特別な体験をした時、心が高まるものに出会った時、どれだけの人に伝えたいと思うだろうか。
私がパッと思い浮かぶのは2人。そしてよくよく考えた結果、やはりその2人だけで大好きなはずなのに先輩の顔は浮かばなかった。
…なんと薄情なやつなんだろう。

そう書くいろはさんの文章を読んで、私も同じような迷いを持ったことを思い出したのでした。

私の中での人間関係は感覚的に、この3つの区分けしかないようです。

上段は読んでの通り、家族と(今はいないけど)恋人の区分け。
ここに入ってくる家族は、親、きょうだい、妹家族、祖父母までかな。
それプラス恋人が居たらその人も+1の少人数枠だね。

中段の顔見知りというのもその言葉の通り、顔を見て知ってる人のこと。
友達をはじめ、noteなどのネットで交流させていただいてる方たち、職場関係の人、専門学校時代の元クラスメイトたち、行ってた哲学の勉強会の師匠や仲間など。

最後の下段は見知らぬ人達。

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で、自分でも結構残念だなと思うんだけど、友達という枠が私の中では細かい分類になっていないひとつの大きな枠なんだ。
きっと多くの人が持っているだろうと推測される、「大切な友達」と「その大切な友達ほどには大切ではない友達」という区分けや、人によっては色々分けられるのかもしれないけれど、私には分けられてないみたい。

かといって友達が大切でないという意味ではなくて、助けを求められたりしたら全力で応える。
でもそれを大切かどうかで区分けはしない人みたいなんだ。

区分けるとしたら、付き合いが長くて相手のことを分かっていて、自分のことも分かっていてくれるから楽な友達と、そうでない友達の区別ぐらいはあるかもしれない。
でも私の場合、そこの区別に大切さは影響しないのです。

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だからいろはさんが言うように、私は薄情な人間なんじゃないかって悩んだ時期がありました。

でも友達が助けを求めてきたら、その友達との付き合いが長いか短いかなんて関係なく、その人のために私にできる限りのことをやらせてもらうだろうから、情が薄いわけではないんじゃないかと、薄情という定義にしっくりこなかったんです。

で、どう考えたらしっくりくるのかと色んな方面からあれこれ考えて、もしかしたら私の持っている情の量とその振り分け方がヒントになるのかなと思い至りました。

ここは感覚値だし計測をすることはできないけど、周囲の人間関係を観察してそれと比較してみたとき、私の持っている情の量はそんなに少ない訳ではなく、少なくとも平均値ぐらいはあるんじゃないかなと思うんです。
薄情な人間には高齢者ケア職はできないはず。

でも私の情の振り分け方は、きっと人様とズレてそうとは思う。

そのズレの部分が、さっき書いた中段では大切かそうでもないかを区分けないところに繋がるんだ。

まず、私は細かく分類できるような器用さを持ってないみたい。
見知ってるかそうでないかという区分けレベルでのその中段枠の人に思う大切さか、家族・恋人といったスペシャルな人への大切さの二分がまずあって、そして見知らない人には大切とかそもそも思わない。

そんな情の振り分け方しかできない不器用人間っぽいので、もし素敵な空の写真が撮れてそれをシェアしたくなったら、個別に送るのではなく、みんなに伝えられるこのnoteのような場所か、家族LINEグループのどちらかに送るかな。
または誰に送れば良いのか考えすぎて分からなくなって、結局送らないかになってしまうのです。

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そんな付き合い方をしている私なので、友人関係は結構浅くなっちゃってると思う。

それでも私にとって中段の人達はみんな大切な友達だし、大切な顔見知りさんたち。

たまに落ち込んでしまうようなタイミングでは、自分のその振り分けの下手さや付き合いの浅さにしょんぼりする時もあるけど、それは私がHSPやADHDであることと同じように、そういうタイプの脳みそを持った人間なんだと冷静になると割り切ってる。
何かと繋がりたがるSNSの時代だけど、私はこういう人間、そんなもんだーと思っています。

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それは例えるなら蛇口をひねって出るお水。

きっと多くの人は蛇口がシャワー型で広い範囲にお水をかけることができるのでしょう。
でも私はストレート型。

この両者に水量の違いはないと思うんです。
つまり情の出し方が違うだけで、情の量が少ない=薄情な訳ではないんじゃないかなと私は考えたんだけど、いろはさんはどうかなぁ。

そして私は一途にストレートに相手を想うこと、自信あります。

 
(そもそもいろはさんが言いたかったことと全然違う方向性だったらごめんなさい。
いろはさんの文章を読んでいて、薄情だなんてとても思えないんですもん)

生きづらさ応援の活動をしています。