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本能寺の変1582 重要 ◎第13話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

重要 ◎第13話 

4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 5/7 

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*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済 
 10① ◎   10② ✓   11 ◎   12 ◎   13 ◎   14 ◎   15 ◎ 
*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
*加筆修正 240117 240219 

◎信長は、合理主義者である。 

 信長は、鋭い人物眼の持ち主。
 重臣たちへ。
 絶えず、目を光らせていた。
 役に立つ者、これを抜擢。
 そうであらねば、切り捨てられる。
 最大の敵、本願寺を倒した今。
 長老・古参・大身とて、容赦はしない。

◎光秀は、出来る男。

 信長は、光秀に、一目置いていた。
 それに、比べて、信盛は、・・・・・。

◎信盛は、光秀と真逆の人物だった。

 最早、打つ手無し。
 信長は、止まらない。
 脳裏にあるのは、明智光秀。

◎武将としても。

 信盛は、強欲で、武士道精神が欠如している。

  一、大まはしに、つもり侯へば(大略を言えば)、
    第一、欲ふかく、気むさく、よき人をも拘(かか)へず、
    其の上、油断の様に取沙汰(職務怠慢との噂)侯へば、

    畢竟(ひっきょう)する所は(結論として)、
    父子とも、武篇道たらはず候によつて、かくの如き事。

◎所領の扱いについても。

 信盛は、与えた所領を無駄にしている。
 兵を養わず、銭金に替えている。

 信長の立腹、収まらず。
 同じことを、繰り返している。
 余程、頭に来ていたのだろう。
 
  一、与力を専(もっぱら)とし、
    余人(味方になりたい人)の取次にも構へ侯時は、
    是れを以て、軍役を勤め、

    自分の侍(さむらい)相拘(かか)へず、
    領中を徒(あだ)になし(所領を無駄にして)、
    比興(卑怯)を構へ侯事。

◎与力・家臣の扱いについても。

 信長は、信盛をこのように見ていた。
 
  一、右衛門与カ・被官等に至るまで、斟酌(しんしゃく=遠慮)侯の事、
    たゞ別条にてこれなし(特に変わった理由があるわけではない)。

    其の身、分別に自慢し、うつくしげなるふりをして、
    錦の中にしまはり(針)をたてたる上を、さくる様なる
    こは(怖)き扱ひに付いて、かくの如きの事。

◎信長は、光秀を見習えと言っている。

 光秀は、「日向守が働き、天下の面目をほどこし侯」、であり。

◎これが、信盛の生き方だった。

 信盛は、「この三十年間、手柄らしい手柄を上げていない」、である。
 
  一、信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、
    佐久間右衛門、比類なき働きと申し鳴らし侯儀、
   一度もこれあるまじき事。

◎信長は、それを見ていた。

 光秀を、見よ。
 秀吉を、〃〃。
 勝家を、〃〃。

 四人は、ともに、織田家最高位の重臣。
 当然、比較の対象となる。

◎信長は、猜疑心の強い男。

◎信盛は、油断した。

 信長の性格を、よくわかっていない。

◎三方ヶ原の合戦。

 八年前。
 元亀三年1572、十二月。
 敵は、戦国最強を誇る甲斐の虎。
 あの、武田信玄である。
 徳川家康、最大の危機。
 信長の四囲は、皆、敵。
 信長は、家康を支援するため、信盛を将とする軍勢を浜松へ派した。

  一、一世の内、勝利を失はざるの処、
    先年、遠江へ人数を遣(つかは)し侯刻(きざみ)、    

◎信盛は、逃げた。

 しかし、信盛は、戦わず。
 戦場から、離脱した。
 戦死した者は、一人もいない。
 これでは、一体、何故の派兵だったのか。
 ・・・・・。 

    互に勝負ありつる習、紛れなく候、
    (勝敗があるのは世の習い、敗れたのは紛れもない事実である)。
 
    然りといふとも、
    家康使をもこれある条、をくれの上にも、
    (家康の強い要望があったのだから、後れを取ったとしても)、

    兄弟を討死させ、又は、然るべき内の者打死させ候へば、
    その身(信盛)、時の仕合(状況)に依て、遁(逃)れ侯かと、
    人も不審を立つべきに(推量するだろうに)、

    一人も殺さず。

◎信長は、信盛に疑念を抱いた。

 繰り返す。
 信長は、猜疑心が強い。
 その上、執念深いのである。

◎信長は、誇り高い男。

◎信長は、面目を潰された。

 そして、誰よりも、誇り高い男なのである。
    
    剰(あまつさ)へ、平手(汎秀)を捨て殺し、
    世にありげなる(平然とした)面をむけ侯儀、
    爰(ここ)を以て、条々、無分別の通り、紛れあるべからずの事。
                           (『信長公記』)

◎光秀は、苦悩していた。

 なるほど、明智の再興は、成った。
 光秀は、織田家最高位の重臣の一人にまで上り詰めた。
 最早、かつての明智にあらず。
 今や、家中、一、二の大身。
 多くの家臣たちがいた。
 順風満帆。
 武士の鑑。
 憧れの存在。
 そのように、見えた。
 されど、・・・・・。

◎光秀は、洞察力に優れていた。

 光秀には、先が見えた。

◎光秀は、五十九 ± 四歳。

 天正十年1582時 。

 【参照】第77話 11光秀の年齢 5結論

◎信長は、四十九歳。

 同 。

◎二人の間には、大きな年齢差があった。

◎光秀は、猜疑心が強い。

◎光秀は、信長を信用していない。

◎後継者光慶は、あまりにも若すぎた。

 十三歳 (同) 。

 【参照】◎第7話  第7話

◎光秀は、信長より、確実に、先に死ぬ、・・・・・。

 天正四年1576、光秀は、陣中で、大病を患ったことがあった。
 体力的に見て、それ程、頑健というレベルではなかったように思う。
 老い先は、長くはなかろう。
 そう、思っていたのではないか、・・・・・。

 「人生五十年」の時代。
 光秀は、疾(と)うに、その年を越えていた。
 「老い」
 いつ、死んでも、おかしくない年代だった。

 参考までに。
 五年後。
  光秀、六十四 ± 四歳 (天正十五年1587) 。
  光慶、十八歳。
 十年後。
  光秀、六十九 ± 四歳 (文禄元年1592) 。
  光慶、二十三歳。

◎未熟な光慶を一人残して、・・・・・。

◎光秀は、信長の気性・性格を知悉していた。

◎役に立たねば捨てられる。

◎光秀は、粛清を怖れていた。

◎「天下布武」が成った後。

◎その時、自分は生きているのだろうか、・・・・・。

◎残された時間は、あまりにも短い。

 光秀の、いない明智氏。
 信長は、生きている。

◎光秀は、不安だった。

◎明智の将来は、暗い。

◎明智に、危機が迫っていた。

◎ならば、・・・・・。




 ⇒ 次へつづく 


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 「本能寺の変」
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