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本能寺の変1582 第15話 4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第15話 4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 7/7 

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信長は、最後まで、信盛を赦さなかった。

 太田牛一は、二度繰り返している。
 「御折檻の条、御自筆にて」
 「此の如く、御自筆を以て遊ばし」
 信長は、激昂した。
 これまで、腹中に堪め込んでいたものが一気に噴き出した。

  此の如く、御自筆を以て遊ばし、
  佐久間右衛門父子かたへ、楠木長安・宮内卿法印・中野又兵衛、
  三人を以て、遠国へ退出すべき趣、仰せ出ださる。

  取る物も取り敢へず、高野山へ上(のぼ)られ侯。

  爰(ここ)にも叶ふべからざる旨(むね)、御諚に付いて、
  高野を立ち出で、

信盛は、逐電した。

 最早、見る影もなし。
 落ちぶれ果てた哀れな姿であった。

  紀伊州熊野の奥、足に任せて逐電なり。

  然る間、譜代の下人に見捨てられ、
  かちはだし(徒歩裸足)にて、己と草履(ぞうり)を取るばかりにて、
  見る目も哀れなる有様なり。
                          (『信長公記』)

信盛は、失意のうちに亡くなった。

 それから、ちょうど一年後。
 天正九年1581、八月。
 大和十津川にて、没す(奈良県吉野郡十津川村)。
 享年、五十五という。

これが、織田家重臣筆頭者の末路である。

 山中の温泉場にて。
 人知れず。
 息を引きとった。
 その心中や、如何に。

  十九日、
  一、佐久間、十津川の湯にて死ぬにつき、

    高野の宿坊の庫(くら)の物、請け取るべきの由、
    信長より仰せつけられ、
    上使、指し上らるゝのところ、
    悉(ことごと)く 以って討ち殺しおわんぬと云々、

    これにより、諸国の高野聖(ひじり)とらえらる、

    近日、手遣(てづか)ひのあるべきの由、沙汰に及ぶと云々、
    則ち、来たる廿三日、陣ふれ(触)これ在ると云々、
    高野滅亡、時刻到来か、
                   (「多聞院日記」八月十九日条)

多聞院英俊もまた、歴史の証人であった。

 奈良、興福寺多聞院の院主。
 「多聞院日記」の著者。
 当日記は、先々代・先代から、引き継がれたものという。
 大和に関する記述が多い。
 特に、英俊の代は、三好・松永・筒井・信長・光秀の時代と合致する。
 それらを知る上で、貴重、かつ、重要な史料である。

その時、光秀は、奈良にいた。

 同じ日。
 偶然にも、光秀は、郡山城を検分するため当地を訪れていた。

そこで、信盛の死を知った。

 誰もの、関心事。
 当然、その話となる。
 光秀の耳にも、入ったであろう。 

  一、惟任日向守、郡山城普請見舞いとして、
    今朝、朝早く成身院まで越しおわんぬ、

    十新(十市氏=筒井氏の親族衆)、是れに来おわんぬ、
    成(成身院)にて、一献これ在り、

    頓(やが)て、郡山へ同道しおわんぬ、
    人数、百計(ばか)り歟(か)と云々、
                   (「多聞院日記」八月十九日条)

光秀の苦悩は、次第に大きくなっていく。

 「油断」、すなわち、「死」。
 「幸」と「不幸」は、紙一重。
 一瞬にして、人生が変わってしまう。
 「陥穽」は、至るところに隠れていた。
 「災い」は、音を立てずにやって来る。
 気の抜けぬ時代だった。
 光秀は、このような時代を生きていたのである。

信長は、命に逆らう者を容赦しない。

 繰り返す。
 信長は、絶対専制君主。
 誰よりも、誇り高い男なのである。
 本願寺を、屈服させた男。
 恐ろしい男なのである。

高野滅亡、時刻到来か。

 そのことが、また、証明された。
 高野聖を成敗。
 その数、何と、数百人。

  八月十七日、高野聖(ひじり=僧)尋ね捜し、搦(から)め捕へて、
  数百人、万(よろず)方より召し寄せられ、悉く誅せられ侯。

「摂津伊丹の牢人ども」

 荒木村重、謀叛。
 その残党たちが高野山に逃げ込んだ。
 信長は、彼らを差し出すよう命じた。

  子細は、摂津伊丹の牢人ども、高野に拘(かか)へおき侯。

  其の内にて、一両人召し出ださるべき者侯て、
  御朱印を以て、仰せ遣はされ侯ところ、

高野山は、抗戦の姿勢を見せた。

 これを拒否したのである。 

  其の儀、御返事をば申し上げず、
  剰(あまつさ)へ、御使に遣はせられ侯者十人ばかり、討ち殺し侯。

 その結果、斯くの如し。

  毎度、御勘気を蒙る者抱へ置き、緩怠につきて、
  かくの如く侯なり。
                          (『信長公記』)

 これについては、後述する。



 ⇒ 次へつづく  第16話  4光秀の苦悩 5分かれ道


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