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本能寺の変1582 第11話 4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第11話 4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 

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重要 ◎目次

本願寺との戦いが終わった、今。

 天正八年1580、八月。

信長は、畿内軍の再編成を考えた。

 巨大な軍事力である。
 織田軍に、大きな余力が生まれた。

信長は、信盛を選から外した。

 「役に立たぬ」
 そう、判断したのである。

 否、そればかりではなかった。

信長は、織田家の将来を考えた。

 佐久間信盛は、古くからの家臣。
 宿老・古老。
 重臣筆頭者。
 大身である。
 尾張・南近江に広大な所領を持っていた。

 織田家中で、信盛と双璧をなす、もう一人の重臣、柴田勝家には、
 以前、信長に背いたという古傷があった。
 信盛に、そのような過去は全く見うけられない。
 これまで、終始一貫して、信長を支えつづけてきた。
 忠臣である。
 だが、それ故の言動をとることも稀にはあった。
 考えようによれば、厄介な存在だった。

 美濃・尾張は、信忠の領国。
 信長は、信忠の今後を考えた。
 
 そして、近江のことを。
 勝家からは、近江の所領を召し上げた。
 その代わりに、新領として、越前を与えている。

◎信長は、粛清の人。

◎信長は、不意を衝く。

◎一、叔父、織田信光。

 不慮の死、暗殺。

 これについては、後述する。

◎一、弟、織田信勝。

 仮病、殺害。

 【参照】4光秀の苦悩 3信長の猜疑心   小
   第9話
  
 ◎織田信勝の一件。
   ◎前にも、同じことがあった。
   ◎信長は、警戒していた。            『信長公記』
   ◎信勝、謀叛。                 『信長公記』
   ◎信長は、病を装った。             『信長公記』
   ◎信勝は、油断した。              『信長公記』
   ◎信長は、信勝を殺害した。           『信長公記』

 これについては、後述する。

◎信長は、恐ろしい男。

 なのである。

 以下、順に説明する。 

◎信長は、信盛を叱りつけた。

 信長の激しい気性が滲み出ている。 

◎その時の折檻状である。

 全十九ヶ条。
 長文である。

  爰(ここ)にて、佐久間右衛門かたへ、御折檻の条、
  御自筆にて仰せ遣はさるゝ趣、

◎信長は、忍耐強い。

◎信長は、執念深い。

◎信長は、長い間、我慢していた。

 鬱積していた感情が、ここで一気に噴き出した。
 「この五年間」、「佐久間父子」は「緩怠」だった、と言い切った。
 織田家の宿老として、また指揮官として、不適格との烙印を押したので
 ある。

     

  一、父子、五ケ年在城の内に、善悪の働きこれなきの段、
    世間の不審余儀なく、
    我々も思ひあたり、言葉にも述べがたき事。

◎佐久間信盛の油断。

◎信盛は、そのことに気づかなかった。

 信長は、信盛が手を抜いていると思っていた。
 しかし、信盛は、光秀・秀吉・勝家とは違うタイプの人物だった。
 波長が合わないのである。
 信長とは、全く違う周波数の持ち主だった。
 信長は、それでも、待った。
 気づくことを期待して。
 そして、この日。
 「突然」
 信盛の不意を衝いた。
 不幸なことである。

  一、此の心持の推量、大坂大敵と存じ、武篇(武辺)にも構へず、
    調儀・調略の道にも立ち入らず、

    たゞ、居城(いじろ)の取出を丈夫にかまへ、幾年も送り侯へば、
    彼の相手、長袖(坊主)の事に侯間、
    行く々々は、信長威光を以て、退くべく侯条、

    さて、遠慮を加へ侯か。

 
信盛は、あまりにも消極的すぎた。
 天王寺砦に立て籠もるばかり。
 早期終結のために、何ら手を打たなかったのである。
 今や、織田家は大組織。
 信盛は、その家臣団の頂点にいた。
 「己の立場を考えよ」
 そういう事、だろう。
 「示しがつかぬ」
 信長が激怒するのも、わかるような気がする。

    但し、武者道の儀、各別たるべし。

    か様の折節、勝ちまけを分別せしめ、一戦を遂ぐれば、
    信長のため、且つ父子のため、諸卒、苦労をも遁(のが)れ、
    誠に本意たるべきに、

    一篇に存じ詰むる事、分別もなく、未練疑ひなき事。

◎光秀は、出来る男。

◎信長は、光秀を褒め称えた。

 信盛を、光秀に比較して見ていたわけである。

 信長は、光秀の積極的な姿勢を誰よりも高く評価していた。
 織田家は、急拡大・急成長を続けていた。
 その先駆けとなったのが明智光秀。
 謂わば、光秀は織田家中の牽引者。
 すなわち、出世頭だった。

  一、丹波国、日向守が働き、天下の面目をほどこし侯。

◎次に、羽柴秀吉。

◎秀吉も、出来る男。

 光秀が、一歩、先んじていた。

◎秀吉は、光秀をマークしていた。

◎同じ穴の狢(ムジナ)。

 秀吉は、油断できぬ相手。
 同類である。   

    次に、羽柴藤吉郎(秀吉)、数ヶ国比類なし。

◎信長は、二人を競わせた。

 自ずと、そうなったのであろう。

◎競争の原理。

 結果としては、導入したことになる。

◎組織の活性化。

 後につづく者たちが、次々に、現れた。
 当然、そうなる。
 池田恒興、然り。

    然うして、池田勝三郎、小身といひしも、
    程なく、花熊申し付け(花隈城を攻略した)、
    是れ又、天下の覚えを取る。

 それに引き換え、信盛は、・・・・・。

    爰(ここ)を以て、我が心を発し、
    一廉(ひとかど)の働き、これあるべき事。

◎光秀は、家臣らの手本だった。

 信長は、光秀を基準にして、家臣らを評価した。

 光秀は、実に、好ましい存在だった。
 織田家中に、大きな刺激を与えた。

 柴田勝家は、その活躍を見て発奮した。
 越前を領していながら、天下の評判を気に懸けて。
 見事、加賀の攻略を成し遂げた。

  一、柴田修理亮、右の働き聞及び、一国を存知ながら、
    天下の取沙汰(評判)、迷惑に付きて(気に懸けて)、
    此の春、賀州に至りて、一国平均に申し付くる事。

◎信長は、報告を重んじた。

 信長は、信盛の不甲斐なさに憤りを感じていた。

 特に、コミュニケーションの拙さを指摘している。
 大坂攻めの総指揮官としては、致命的欠陥だった。
 少しは光秀を見習え、と言っているのである。

  一、武篇道ふがひなきにおいては、
    属託を以て(人を使って)、調略をも仕り、
    相たらはぬ所をば、我等にきかせ、相済ますのところ、
    五ヶ年、一度も申し越さざるの儀、油断・曲事の事。

◎信長は、光秀の報告のあり方に満足していた。

 信長は、信盛と、意思の疎通がうまく出来ていなかった。
 織田家中は、命令と報告で成り立っていた。
 信長は、命令し、報告を受け、的確に現状を認識する。
 それも、同時に、多方向へ。
 そして、〃 〃、多方向から。
 
 光秀ならば、・・・・・。
 信長は、苛立っていた。
 
  一、やす田(保田安政)の儀、
    先書注進、彼(大坂)の一揆、攻め崩すにおいては、
    残る小城ども、大略退散致すべきの由、紙面に載せ、父子連判候。

    然るところ、一旦の届けこれなく、
    送り遣(つか)はす事、手前(信盛)の迷惑、
    これを遁(のが)るべしと、事を左右に寄せ、
    彼是(かれこれ)、存分申す(信盛が安政に)やの事。
                           (『信長公記』)

 これについては、後述する。

◎光秀は、洞察力に優れていた。

◎光秀は、信長の性格を知悉していた。

◎光秀は、粛清を怖れた。

◎秀吉、これに同じ。




 ⇒ 次へつづく  第12話 4光秀の苦悩 4粛清の怖れ


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本能寺の変

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