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本能寺の変1582 第9話 4光秀の苦悩 3信長の猜疑心 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第9話 4光秀の苦悩 3信長の猜疑心 

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重要 ◎目次

◎明智の前途には、暗雲が立ち込めていた。

 光秀の、心の奥底。
 知る者など、誰もいない。
 当主なればこそ。
 光秀は、聡い男。
 「先行のこと」
 考えるほどに、見通しが暗くなる。
 「取るべき道」
 苦悩の日々がつづいていた。

◎なるほど、「持てる者」には成った。

 光秀は、不遇の日々を送っていた。
 貧しかった。
 何もなかった。
 「持たざる者」、だった。 

 しかし、「志」があった。
 そして、「実行力」があった。
 そこに、「幸運」が訪れた。
 
 永禄十一年1568。
 信長と出会う。
 ここから、である。
 信長の人物眼。
 光秀の人生は、大きく開けて行く。
 正に、水を得た魚。
 以後、出世街道を驀進する。

◎志賀一郡、拝領。

 元亀二年1571、九月。
 信長は、叡山を焼討した。
 光秀は、この戦いで大きな手柄を上げた。

 信長は、躊躇しない。
 「火を懸けよ」
 叡山は、灰燼と化した。

  九月十二日、叡山を取り詰め、根本中堂・三王廿一社を初め奉り、
  霊仏・霊社・僧坊・経巻一宇も残さず、一時に雲霞の如く焼き払ひ、
  灰燼(かいじん)の地となすこそ哀れなれ。


 僧侶ばかりでなかった。
 麓の老若男女あわせて、数千人が殺害された。

  山下の男女老若、右往左往に癈忘(はいぼう)致し、
  取る物も取り敢へず、
  悉(ことごと)く、かちはだしにて、八王子山へ迯(逃)げ上り、
  社内へ迯げ籠(こ)み、、

  諸卒、四方より鬨声(ときのこえ)を上げて攻め上る。
  僧俗・児童・智者・上人、一々に頸(くび)をきり、

  信長の御目に懸け、

  是れは、山頭に於いて、其の隠れなき高僧・貴僧・有智の僧と申し、
  其の外、美女・小童、其の員(かず)をも知らず召し捕り、召し列ね、

  御前へ参り、

  悪僧の儀は是非に及ばず、是れ(私たち)は御扶(たす)けなされ候へと、
  声々に申し上げ候と雖も、

  中々、御許容なく、

  一々に頸(くび)を打ち落され、目も当てられぬ有様なり。
  数千の屍(しかばね)、算を乱し、哀れなる仕合せなり。


 信長は、溜飲を下げた。

  年来の御胸朦(きょうもう)を散ぜられ訖(おわ)んぬ。

 信長は、光秀に志賀一郡を与えた。
 あわせて、築城を命ず。
 光秀は、城持大名になった。

  さて、志賀郡、明智十兵衛に下され、坂本に在地候ひしなり。 

◎丹波一国、拝領。

 天正七年1579、十月。
 光秀は、丹後・丹波二ヶ国を制圧した。
 報告のため、安土城へ。
 献上の品、しじら百反。
 光秀、名誉の瞬間である。

  十月廿四日、惟任日向守、丹後・丹波両国一篇に申し付け、
  光秀は安土へ参り、御礼。
  其の時、志々良百端進上侯ひき。
                           (『信長公記』)


 同八年1580。
 丹波拝領。
 光秀は、ついに、国持大名に上り詰めた。

 なお、丹後は細川藤孝に与えられた。

◎しかし、信長は、猜疑心が強かった。

 否、強すぎた。
 それ故、ここまで、生き抜くことが出来た。
 時は、戦国時代。
 「油断」は、「死」を意味した。

◎織田信勝の一件。

 信勝は、信長のすぐ下の弟。
 母は、同じく土田氏。
 生年不詳。
 末盛城を居城とした。
 信澄の父である。
 信澄は、光秀の娘婿。
 父の顔を知らず。

◎前にも、同じことがあった。

 その時は、赦した。

 これについては、後述する。

◎信長は、警戒していた。

 弟ですら、信じられぬ時代だった。
 「再び」
 信長は、そう、思っていた。
 疑わねば、命を失う世の中だった。
 死神は、ある日、突然、訪れる。
 不幸にも、その通りになった。

 永禄元年1558。
 事件は、起きた。

 信勝は、岩倉織田氏と通じていた。
 その背後には、美濃の斎藤義龍がいた。
 義龍は、信勝の心底を知り尽くしていた。

  一、上総介殿信長公の御舎弟勘十郎殿、龍泉寺を城に御拵(こしら)へ
    なされ侯。
    上郡岩倉の織田伊勢守(織田信賢)と仰せ合はせられ、
    信長の御台所入り(蔵入地である)篠木三郷、能き知行にて侯。
    是れを押領侯はんとの、御巧みにて侯。


      *龍泉寺 愛知県名古屋市守山区竜泉寺1丁目
      *篠木 愛知県春日井市篠木町

◎信勝、謀叛。

 二度目である。

 柴田勝家は、信勝の家臣。
 主君を裏切った。
 これを、信長へ報せた。

  勘十郎殿御若衆に、津々木蔵人とてこれあり。
  御家中の覚えの侍どもは皆、津々木に付けられ候。
  勝ちに乗りて奢り、柴田権六を蔑如(べつじょ)に持て扱ひ候。

  柴田、無念に存じ、上総介殿へ、又、御謀叛おぼしめし立つの由、
  申し上げられ候。

◎信長は、病を装った。

 苦悩の末の決断だった。

  是れより、信長、作病(つくりやまい)を御構へにて、
  一切、面へ御出でなし。

◎信勝は、油断した。

 同十一月二日。
 まだ、気づいていない。
 兄の見舞いに訪れた。

  御兄弟の儀に侯間、勘十郎殿御見舞然るべしと、
  御袋様、並びに、柴田権六異見申すに付きて、
  清洲へ御見舞に御出で、清洲北矢蔵天主次の間にて、

◎信長は、信勝を殺害した。

  弘治四年戊午(つちのえうま)霜月二日、
  河尻・青貝に仰せ付けられ、御生害なされ侯。

                           (『信長公記』)

    
*弘治は、2月28日、永禄と改元された。

◎これが当時の風潮だった。

 猜疑心 → 実の弟を殺害。
 恐ろしい時代だったのである。

◎本能寺の変を現代の風潮でとらえるべからず!

 風潮は、時代とともに変化する。
 明治時代を見よ*。
 否、大正時代を*。
 否、昭和の頃を*。
 否、平成を*。 
 ましてや、本能寺の変は、今から、数百年も前の出来事。
 時代が、大きく違うのだから、当時と今とでは、風潮も大きく異なる。
 当然のことである。
 したがって、この事件を、現代の風潮でとらえてはいけない。
 当時の風潮を、よくよく理解した上で、考えるべきと思う。

  *明治 1868~
   大正 1912~
   昭和 1926~ 
   平成 1989~
   令和 2019~



 ⇒ 次へつづく  第10話① 4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 


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