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本能寺の変1582 第8話 4光秀の苦悩 2志向の相違 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第8話 4光秀の苦悩 2志向の相違 

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重要 ◎目次

◎世界は、大航海時代であった。

 当時、イエズス会は、中国、すなわち明(1368~1644)へ、
 積極的に、布教活動を拡大しようとしていた。
 背景には、ポルトガルの野望があった。
 覇権を狙っていた。

 これについては、後述する。

◎信長の目は、海外を見ていた。

 信長は、フロイスから、大きな刺激を受けた。
 激動する世界の情勢等々。
 様々な知識を得たのだろう。
 そして、覚醒した。
 「明」
 信長の思いは、東シナ海の向こう側にあった。

◎信長の「さらなる夢」。

 フロイスは、このことを確りと書き留めている。

 一つは、「イエズス会日本年報」にある。
 天正十年十月二十日。
 フロイスは、信長の死について、イエズス会総会長へ報告した。
 次は、その中の一文である。

  信長は自ら行くことに決し、都に来り、
  同所より堺に赴くこととし、

  毛利を征服して、
  日本六十六ヵ国の領主となった後、
  一大艦隊を編成して
  シナを征服し、
  諸国をその子達に分ち与へんと計画した。

◎信長の拡大政策は、止まず。

 もう一つは、『日本史』に。
 こちらの方は、その後年に書かれたものである。

  信長は、事実行なわれたように、都に赴くことを決め、
  同所から堺に前進し、

  毛利を平定し、
  日本六十六ヵ国の絶対君主になった暁には、
  一大艦隊を編成して、
  シナを武力で征服し、
  諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった。

◎これが信長の志向。

 「シナを征服し」
 「シナを武力で征服し」
 と、ある。 

 だが、結局、本能寺の変により、それは潰えた。

◎光秀は、信長の「さらなる夢」を知っていた。

 信長とフロイスが居た場所に、光秀も居合わせたかどうか定かではない。
 しかし、耳には入っていただろう。
 信長にとって、光秀は重宝な存在。
 終生、坂本から離さなかった。
 安土には、屋敷もあった。
 光秀は、織田家の出世頭。
 万事につき、抜かりのない人物だった。
 信長との意思疎通を絶やさず、信長に関するあらゆる情報を、貪欲に収集
 していたものと思う。
 そのための、ネットワークのようなものがあったのではなかろうか。

◎光秀の坂本城は、安土城の対岸にある。

 琵琶湖を挟んで、直線でおよそ26㎞。
 間に、遮るものは何もない。
 当時は、視認できたのかもしれない。
 きわめて近い位置にあった。
 舟を利用して、「早く」、「楽に」、往来することができた。
 出仕するのも、容易だっただろう。

◎光秀には、妹の妻木氏がいた。

 天正七年1579、四月。
 京である。
 光秀の妹妻木氏が吉田兼見に尋ねた。

  十八日、癸巳(みずのとみ)、
  妻木惟向州妹、参宮、
  神事の義、書状を以って尋ね来たる、
  月水(月経のこと)の義なり、


 同年、九月。
 兼見が妻木氏を訪ねている。
 不在だった。
 「姉」とあるが、「妹」の誤り。

  廿五日、戊辰(つちのえたつ)、
  惟任姉妻木、在京の間、罷り向かふ、
  双瓶・食籠持参、
  他行なり、
  女房に渡し、館に皈(帰)る。
                          (「兼見卿記」)

◎妻木氏は、信長の側近くに仕えていた。

 天正九年1581、八月。
 本能寺の変の前年である。
 この時、光秀は、郡山城の普請を検分するため奈良に入っていた。
 以下は、多聞院英俊の記録である。

  廿一日、
  今暁、惟任帰られおわんぬ、
  殊に儀なく、珍重々々、

◎光秀は、妻木氏失った。

 同日条につづく。

 この少し前、妻木氏が亡くなった。
 「一段のキヨシなり」、とある。
 信長のお気に入りだった。
 光秀は、大いに落胆した。

  去る七日・八日の比(ころ)歟(か)、
  惟任の妹の御ツマキ死におわんぬ、
  信長、一段のキヨシなり、
  向州比類なく、力を落とすなり、
                         (「多聞院日記」)

◎妻木氏は、信長と光秀を繋ぐパイプ役だった。

 その役割は、大きい。
 情報源として、きわめて重要な存在だった。
 明智一族の存亡に、深く関わっていたと言っても過言ではあるまい。

◎光秀は、大きなダメージを受けた。

 その損失は、計り知れない。

◎国々は、猶、長閑(のどか)なる時。

 天正十年五月二十七日、愛宕山で、光慶が詠じた「結句」である。 

◎これが光秀の志向。

 すなわち、国家の安寧。
 これこそが、光秀の願うところであった。

◎光秀は、分岐点の上にいた。

 右、拡大。
 左、安寧。

  【参照】1信長、死す 是非に及ばず   小
    第1話
     光秀は、沓掛に到着した。

◎ならば、明智の取るべき道は、・・・・・。

 光秀は、苦悩していた。



  ⇒ 次へつづく  第9話 4光秀の苦悩 3信長の猜疑心 


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