本能寺の変1582 第1話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第1話 1信長、死す 是非に及ばず
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今から442年前のこと*。
『信長公記』の中でも、最も有名な部分。
著者太田牛一の息づかいが聞こえるようである。
手に汗握る場面。
緊迫感が伝わって来る。
*2024年-1582年=442年
天正十年六月二日、未明。
世間の誰もが予期せぬことであった。
さる程に、不慮の題目出来(しゅったい)侯て、
光秀は、己の心底を打ち明けた。
彼らこそ、腹心の者ども。
「一蓮托生」
強い絆で結ばれていた。
六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、
明智左馬助(秀満)・明智次右衛門(光忠)・藤田伝五(行政)・斎藤内蔵
(利三)、是れ等として談合を相究め、
「信長を討つ」
戦国の世である。
「生」と「死」が隣り合っていた。
一手違えれば、そこは地獄。
光秀には、先が見えた。
「ならば」
取るべき道は、ただ一つ。
結果、それは天下簒奪(さんだつ)を意味する。
信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を究め、
光秀は、中国攻めを取り止めた。
軍勢の一部は、すでに西へ向けて進発していた。
光秀は、これらに引き返すよう命じた。
亀山より中国へは、三草越えを仕り侯。
爰(ここ)を引き返し、
老ノ坂を経て、山崎へ。
明智軍は、東へ向きを変えた。
将兵らは、真の行先を知らず。
東向きに馬の首を並べ、
老の山へ上り、
山崎より摂津国地を出勢すべきの旨、
諸卒に申し触れ、
光秀は、亀山を発った。
先手の将は、斎藤利三ら談合の衆。
談合の者どもに先手を申しつけ、
暗闇の中。
軍勢は、粛々と進む。
光秀は、沓掛に到着した。
分岐点である。
ここで、道が二つに分れた。
右、中国毛利へ。
左、京。
六月朔日、夜に入り、老の山へ上り、
右へ行く道は、山崎・天神馬場、摂津国皆道(街道)なり。
左へ下れば、京へ出る道なり。
そして、桂川へ。
光秀は、躊躇せず。
「左」の道をとった。
明智軍は、前進する。
爰(ここ)を左へ下り、
漸く、夜も明け方に罷りなり侯。
光秀は、川を越えた。
目指すは、「本能寺」。
「信長の首」。
桂川打ち越し、
漸(ようや)く、夜も明け方に罷りなり侯。
(『信長公記』)
⇒ 次へつづく 第2話 1信長、死す 是非に及ばず
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