見出し画像

本能寺の変1582 第16話 4光秀の苦悩 5分かれ道 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第16話 4光秀の苦悩 5分かれ道 

はじめに ←目次 ←前回 第15話 

信長は、苛烈だった。

 厳しく、激しやすい性格だった。
 特に、近年。
 ・・・・・。
 予測、不能。
 それは、ある日、突然、やって来る。

竹生島、参詣事件。

 天正九年1581、四月。
 信長は、わずかな供廻りで安土城を発った。

  四月十日、信長御小姓衆五、六人召し列れられ、竹生島御参詣。
  長浜の羽柴筑前(秀吉)所まで御馬にめされ、
  是れより海上五里、御舟にて御社参。

 信長は、参詣を終え、その日のうちに帰城した。
 「希代の題目なり」
 並外れた、気力・体力の持ち主なのである。

  海陸ともに片道十五里の所を、日の内に上り下り、
  三十里の道、御帰城なさる。

  希代の題目なり。
  併(しか)しながら、御機力も、余人にかはり、
  御達者に御座侯のところ、
  諸人、感じ奉り侯なり。


 ここで、事件が起きた。

  遠路に侯へば、今日は長浜に御逗留侯はんと、
  何れも存知のところ、

  御帰り侯て御覧侯へば、

 
女たちは、慌てふためいた。

  御女房たち、
  或ひは、二丸まで出でられ、
  或ひは、桑実(くわのみ)寺薬師参りもあり。
  御城内は、行きあたり、もだえ焦(こが)れ、仰天限りなし。  

信長は、女房衆らを誅殺した。

 「御成敗侯なり」
  女と雖も、容赦せず。

  則ち、くゝり縛り、

  桑実寺へ、女房ども出だし侯へと御使を遣(つか)はされ侯へば、

  御慈悲に御助け侯へと、長老、詫言申し上げられ侯へば、
  其の長老をも、同事に御成敗侯なり。

                          (『信長公記』)

その時、光秀は丹後にいた。

 亀山城を出発。
 山陰道を通って、福知山から宮津へ向かう。
 津田宗及らを同道。

  四月九日に、
  丹波亀山より奥郡へ通り申す路次中にて、方々振舞いこれ有り、

光秀は、福知山城に明智秀満を置いていた。

 秀満は、光秀の最重臣。
 娘婿である。

 光秀には、適齢の娘が三人いた。
 その内の一人が、荒木村重の嫡男村次に嫁いだ。
 しかし、謀反により、離縁され、明智に戻された。
 後、秀満に再嫁した。

 同城にて、饗応があった。

  四月十日朝、
  福知山にて、明知弥平次殿の振舞、七五三の膳なり、

束の間の平穏。

 急ぐ旅にあらず。
 丹後への道。
 長閑な景色を眺めつつ。
 光秀一行は、ゆっくりと北上した。

  四月十一日朝、 福知山より罷り出で候なり、
  惟任殿御供申し候、

世俗を離れて。

 その途上にて。 
 ひと時を楽しむ。
 風流の世界。

  路次にて、福寿院(愛宕山下坊)振舞、
  茶屋を立て、
  生鮎・生鯉・鮒、せんすひ(さんすい)を俄(にわか)用意にて、
  魚共をはなされ候、
  是れも七五三、色々様々に振舞なり、
                         (「天王寺屋会記」)



  ⇒ 次へつづく  第17話 4光秀の苦悩 5分かれ道


この記事が参加している募集

テレビドラマ感想文

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?