見出し画像

本能寺の変1582 第17話 4光秀の苦悩 5分かれ道 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第17話 4光秀の苦悩 5分かれ道 

はじめに ←目次 ←前回 第16話 

細川藤孝が光秀一行を出迎えた。

 宮津に到着。
 そして、饗応。
 心地よい時が流れる。

  四月十二日の朝、 長岡与壹郎殿の振舞

  一、御人数 惟任日向守殿父子三人
        長岡兵部太夫殿父子三人
        紹巴 宗及 宗二 道是

    本膳七ツ、二膳五ツ、三膳五ツ、四膳三ツ、五膳三ツ、引物二色
    以上七の膳なり、
    菓子むすび(結)花にてかざ(飾)り、十一種なり、

「惟任日向守殿父子三人」

 一人は、十五郎光慶。
 もう一人は、秀満のことであろうか。

「長岡兵部太夫殿父子三人」

 細川藤孝、嫡男忠興(与一郎)、二男興元(頓五郎)。

細川忠興は、光秀の娘婿である。

 光秀の三女という。
 後の細川ガラシャ。

 忠興から光秀へ。
 太刀を進上。

  一、御酒半に、地蔵行平の太刀、
    与一郎殿より、日向殿へ御進上候なり、
                        (「天王寺屋会記」)

光秀は、風流の人だった。

 「紹巴 宗及 宗二 道是」、とある。
 里村紹巴は、連歌師。
 津田宗及・山上宗二・平野道是は、茶人。
 何れも、当代一流の文化人である。

光秀、天橋立に遊ぶ。

 「戦のない世」
 その有難さが身に染みた。
 最良の一日であった。

  同十二日の巳の刻に、 
  九世戸へ見物、かざり船にて、并びに橋立の文殊にて御振舞これあり、

  一、俄(にわか)夕立の雨ふりて、    兵部大夫殿藤孝

     夕立のけふハ(刃)はハや(早)き切戸哉、

  一、紹巴と、日向殿と、太夫殿と連歌あり、
    九世戸の松になへ松といふ松なり、其れについての発句あり、

     うふ(植)てる松は千年(ちとせ)のさなえ
(早苗)哉   光秀
     夏山うつす水の見なかみ(水上)   藤孝
     夕立のあとさりげなき月見へて  紹巴
                       (「天王寺屋会記」)

実に、好対照な出来事であった。

 たまたま、偶然が重なっただけである。
 しかし、「陰」と「陽」。
 あまりにも、際立つ、その違い。
 やがて、それは、あの大事件へと繋がっていく。

信長は、竹生島参詣後、女房衆を誅殺。

 これが、本来の姿なのだろうか。

 信長は、絶対専制君主。
 ただ一人の存在なのである。
 他の誰よりも、大きな夢があった。
 それへ向かって、一直線。
 ひたすら、突っ走った。
 それが、信長の生き方。
 己の、生きる道。
 為すべきこと。
 やり遂げなければならぬ、目的だったのである。
 難題山積。
 緊張の日々。

 そして、完璧主義者で。
 頭の回転が速く。
 「隙」を見せず。
 気力・体力が充実し。
 図抜けた、実行力があった。
 これもまた、個性なのだから、仕方がない。

 休む間など、皆無だった。
 心身ともに。
 多忙を極めていたのである。

 心の余裕を失っていた。
 ・・・・・、のではないか。

光秀は、天橋立に遊び、連歌を楽しむ。

 これが、光秀の実像である。
 信長とは、異なる部分を有していた。

 光秀は、心(しん)から、茶の湯・連歌が好きだった。
 武将でありながら、文芸を好む人物だった。
 それ故、宗及ら文人を同道した。
 正に、「忙中閑あり」、である。
 光秀には、このような一面があった。

光秀は、節度の人。

 己の分を弁(わきま)えていた。  
 佐久間信栄(信盛の嫡男)は、深入りしすぎて、その身を滅ぼした。
 この違い。
 まことに、雲泥の差である。

光秀は、文武両道の人。

 そして、その反面。
 光秀は、権謀術数に長け。
 目的のためには、手段を選ばず。
 信長の家臣として。
 また、戦国武将として。
 為すべき時に、為すべきことを。
 躊躇なく、成し遂げることが出来た。

 信長にとっては、まことに、重宝で、得難い人材だったのである。




  ⇒ 次へつづく  第18話 4光秀の苦悩 5分かれ道


この記事が参加している募集

テレビドラマ感想文

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?