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本能寺の変1582 第18話 4光秀の苦悩 5分かれ道 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第18話 4光秀の苦悩 5分かれ道 

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ここが、二人の分かれ道であった。

 この辺りからである。
 信長と光秀。
 二人の目指す方向に、微妙なズレが生じてきた。
 見方を変えれば、それがわかる。

信長は、天下統一後、さらなる夢へ。

 「人間五十年」
 信長は、この時48歳。
 「滅せぬ者の有るべきか」
 目的意識の高い男である。
 「あと二年」
 時間と戦っていた。

 信長は、東西へ目を遣った。

 一、東の武田。
   先ずは、調略。
   木曽の義昌。

 一、西の毛利。
   信長は、引きずり出そうとしていた。
   「報せよ」
   これは、秀吉。
   因幡、鳥取。
   秀吉は、その準備に余念がなかった。

 信長は、着々と手を打っていた。
 これらを下せば、・・・・・。
 「天下布武」は、成る。
 そう、見ていた。

 そして、次。
 「さらなる夢」
 信長は、会うのを心待ちにしていた。
 「伴天連ども」
 イエズス会の宣教師たちである。
 そして、その夢は、次第に膨らんでいく。 

光秀には、守らねばならぬ者たちがいた。

 あの時は、何も無かった。
 「なれど」
 今は、違う。

 家族がいる。
 一族がいる。
 多くの家臣たちがいた。

 広大な領地があり。
 立派な城があり。
 豊かな、田畑があり。
 数多の領民たちがいた。

 名誉があり。
 地位もあり。
 武力があり。
 財力もあった。
 与力たちもいた。

明智は、絶頂期にあった。

 光秀は、その家長。
 自身の年齢のこともある。
 後継者光慶のこともあった。
 それらの全てが、己の一身に懸かっていた。
 「守らねばならぬ」
 そう、思った。

 極めて、自然な流れだと思う。

二人の距離は、少しづつ、離れていく。

 本能寺の変。
 天正十年1582、六月二日。

 これが、その一年二ヶ月ほど前の状況であった。
 時は、刻々と流れて行く。





  ⇒ 次へつづく  第19話 5光秀と細川藤孝 1将軍殺害


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