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本能寺の変1582 重要 ◎第7話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

重要 ◎第7話 4 光秀の苦悩 1嫡男光慶 

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その一因 
見えてきたもの 目次 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
  7 ◎ 
*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
*加筆修正 240202 

◎光秀は、悩んでいた。

◎己の年齢。

◎そして、老い。

 肉体の衰え。
 体力低下。 

◎光秀は、体力に不安を感じていた。

 光秀は、そろそろ、人生の終末について、考えねばならぬ時期に差し掛か
 ってていた。

 信長の軍事指揮官として。
 己の役目。
 今は、まだ良い。
 なれど、 
 「遠からず」
 その日は、来る。

 体力に関する不安。
 その様な年齢になっていた。

 これについては、後述する。

◎光秀は、かつて、大病を患ったことがあった。

 大坂攻めの真っ最中であった。 
 あいにく、梅雨の季節。
 激戦がつづいた。
 長陣である。
 その陣中で。
 劣悪な環境。
 疲労の蓄積。 
 光秀は、倒れた。

 光秀は、生死の境を彷徨(さまよ)った。
 これまでの人生で、最大の危機であった。 
 しかし、名医曲直瀬(まなせ)道三の懸命な治療と、妻の献身的な看病に
 より、奇跡的に持ち直した。
 
 考察するに、光秀は、この時の体験から、長期遠征・長期の陣中暮らし
 について、多少なりとも、不安を感じていたのではなかろうか。
 おそらく、それ程、頑強な肉体の持ち主ではなかったのだろう。
 年齢の問題に、このことが重なった。

◎吉田兼見がその証人である。

 兼見は、吉田神社の神主。
 天文四年1535の生まれ。
 細川藤孝の従弟。
 年齢は、一つ下。
 光秀と親交が深い人物である。
 信長との交流もあった。
 日記、「兼見卿記」を著した。

 天正四年1576、五月。
 重篤な状態だった。
 光秀は、京に戻った。
 兼見は、急を聞いて、駆けつけた。
  
  廿三日、乙卯(きのとう)、
  惟日、以ての外の所労に依り皈(帰)陣、在京なり、
  罷り向かふ、
  道三(曲直瀬)療治と云々、
                    
【 重史 013】(「兼見卿記」)

◎ルイス・フロイスと曲直瀬道三。

 これ以後、長い闘病生活が始まる。
 曲直瀬道三について、フロイスは次のように言っている。

  日本の六十六ヵ国にいるすべての医師のうち、特に優れた三人の医師
  が都にいた。
  その三人のうち、道三と称する者が現在第一位を占めている。
  
  この者は医術に秀でていりのみならず、多くの他の稀有の才幹を兼備
  しているところから、
  日本の諸国主、ならびに諸侯たちから大いに重んぜられ、かつ敬われ
  ている。
                           (『日本史』)

◎光秀の妻が祈祷を依頼した。

 妻木氏と伝わる。
  
  廿四日、丙辰(ひのえたつ)、
  惟日祈念の事、女房衆より申し来たる、
  撫物(なでもの=祈祷のための人形など)以下の事、
  一書を以って、返答。
                    
【 重史 013】(「兼見卿記」)

◎信長は、使者を派して光秀を見舞った。

 光秀は、出来る男。
 役に立つ。
 信長は、これを重用した。
 必要不可欠。
 なくてはならぬ重臣だった。
 「惟任」
 信長は、光秀の身を深く案じていた。

 光秀の置かれていた立場・状況がよくわかる部分である。

  廿六日、戌午(つちのえうま)、
  夜に入り、惟日女房衆より、大中寺(光秀の家臣)を以って、
  祈念の事、申し来たる、

  惟日御見廻りとして、左大将より、埴原(新右衛門)御使と云々、
                    
【 重史 013】(「兼見卿記」)

◎「世代交代」

 光秀は、明智の当主。
 そこには、避けて通れぬ大問題があった。
 「世代交代」、である。

 そして、このことが、織田家における、光秀の身分・地位・立場と密接に
 関係していた。

 すなわち、後継者。
 明智の存続に直結する問題。 
 これが、また、難しい。

◎光秀の嫡男は、光慶である。

 本能寺の変は、天正十年六月二日に起きた。
 その、わずか四日前。
 光秀は、愛宕山で連歌会を催した。
 これが、「愛宕百韻」である。
 その中に、光慶(みつよし)の名がある。

◎明智光秀張行百韻 天正十年五月二十七日。

 発句 ここから、始まる。

  時は今、あめが下なる五月哉、     光秀

 結句 ここで、終わる。

  国々は、猶、長閑(のどか)なる時、    光慶
                          (「続群書類従」)

 なお、これについては後述する。

◎この時、光慶は、まだ13歳だった。

 今風に言えば、12歳。
 小学6年生である。
 まだ、若い。
 否、若すぎた。

◎光慶は、フロイスの『日本史』に登場する。

 この中に、光慶の年齢が書かれている。
 
 同、六月十三日。
 光秀は、山崎の合戦で秀吉に敗れ、坂本へ向かう途中で亡くなった。
 次の場面は、その後の坂本城の様子である。
 光慶は、明智軍の惨敗と父の最期を知った。

  安土を去った明智の武将は坂本に立て籠ったが、
  そこには明智の婦女子や家族、親族がいた。

  
  次の火曜日には同所へ羽柴の軍勢が到着したが、
  すでに多数の者は城から逃亡していた。

  
  そこでかの武将および他の武将らは、軍勢が接近し、ジュスト右近殿が
  最初に入城した者の先発者であるのを見ると、
  「高山、ここへ参れ、貴公を金持ちにして進ぜよう」と呼びかけ、
  多量の黄金を窓から海(湖)に投げ始めた。

  そしてそれを終えると、貴公らの手に落ちると考えることなかれと
  言いつつ、最高の塔に立て籠り、内部に入ったまま、
  彼らのすべての婦女子を殺害した後、塔に放火し、自分らは切腹した。

  その時、明智の二子が死んだが、非常に上品な子供たちで、
  ヨーロッパの王子を思わせるほどであったと言われ、
  長男は十三歳であった。
                      
【 重史 014】(『日本史』)

◎フロイスもまた、歴史の証人である。

 ルイス・フロイスは、イエズス会の宣教師。
 『日本史』を世に残した。
 西洋人の目から見た、当時の、この国の実態がよくわかる。
 貴重な史料である。
 信長の二つ上。
 同世代である。
 信長は、遥か彼方の異国の地から、怒涛逆巻く、万里の大海を乗り越えて
 やって来た彼らの勇気に感嘆し、尊崇の念を以って、温かく迎えた。
 その親交については、多くの人の知るところである。
 以下、その略歴を示す。

  1532(天文元年)、ポルトガルのリスボンに生まれた。
  1563(永禄六年)、布教のため来日。
  1565(同八年)、入京。
  1568(同十一年)、信長に会う。
  1576(天正四年)、九州に転じる(豊後)。
            後任は、オルガンティーノ。
  1581(同九年)、三月、巡察師ヴァリニャーノとともに、京へ。
           信長と再会、大歓迎を受ける。
           秋、九州へ帰る。
  1582(同十年)、本能寺の変、勃発。
  1583(同十一年)、『日本史』の執筆に着手。
  1597(慶長二年)、未完のまま、長崎にて没(享年65)。



 ⇒ 次へつづく

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