本能寺の変1582 第203話 16光秀の雌伏時代 5遊行上人 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第203話 16光秀の雌伏時代 5遊行上人
土岐頼純の反撃が始まった。
天文四年1535頃のこと、という。
頼純は、大永四年1524の生れ。
この時、十二歳。
光秀と同じぐらいの年頃であったらしい。
光秀は、頼純の家臣だった。
それから、六年後。
すなわち、天文十年代1541~。
光秀は、頼純の家臣だったと思われる。
年齢を考えれば、そうなる。
頼純は、斎藤道三に殺害された。
さらに、その六年後。
天文十六年1547。
道三は、手段を選ばぬ男。
頼純を殺害した。
享年、二十四。
光秀は、主君を失った。
以後、牢人となる。
「濃州土岐一家牢人たりしか」、とある。
光秀は、越前へ逃げた。
光秀には、長崎称念寺の門前で暮らした時期があった。
これが、光秀の雌伏時代。
同寺の僧侶と懇意だった。
「念珠(ねんごろ)にて」、とある。
先に述べた「六寮」のことである。
だが、その時期については、よくわかっていない。
義昭が越前一乗谷に入った。
永禄十年1567、十一月のことである。
そこに、細川藤孝がいた。
翌十一年1568、七月。
義昭は、上洛のために、同地を離れた。
ここから、逆算すれば、永禄二年1559が、数えの「十ヶ年」となる。
【参照】11光秀の年齢 3土岐の随分衆 小
第72話
☆光秀の明智氏は、土岐頼武の家臣だった。
☆光秀は、土岐頼純の家臣。
斎藤道三による下剋上が始まった。
☆頼純は、道三に殺害された。 「春日文書」
☆光秀は、主君を失った。
☆光秀は、越前へ逃げた。 「遊行上人三十一祖京畿御修行記」
☆光秀は、まだ、独身だった。
道三は、土岐頼芸を追放した。
道三の下剋上、成る。 『信長公記』
第73話
本能寺の変と頼純殺害の年。
五十歳とした場合。
五十五歳とした場合。
六十歳とした場合。
永禄十一年1568、信長は三十五歳。
光秀は、信長の目に止まった。
【参照】11光秀の年齢 5結論 小
第77話
結論として。
下限は、五十五歳ぐらい。
上限は、六十三歳ぐらい。
☆光秀の年齢は、五十九±四歳ぐらい。
【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 小
第81話
土岐頼純の反撃が始まった。
朝倉孝景が頼純に援軍を派した。
美濃は、内乱状態になった。
土岐頼芸と頼純が和睦した。
土岐頼純が越前から美濃大桑城に入った。
【参照】12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 小
第84話
美濃では、再び、戦いが始まった。
朝倉孝景と織田信秀が頼純を支援した。
信秀は、美濃へ攻め入った。 『信長公記』
信秀は、道三の反撃をうけ大打撃を被った。 『信長公記』
道三は、頼純に従属する姿勢を見せた。
そして、講和。
道三の娘が頼純に嫁した。 「春日文書」
第85話
信長、元服。 『信長公記』
信長、初陣。 『信長公記』
道三が、頼純を殺害した。 『信長公記』
【参照】12光秀と斎藤道三 5光秀の三十代 小
第90話
1550年代、光秀の三十代。
☆この頃、鉄砲が普及し始めていた。 「言継卿記」
☆道三は、頼芸を追放した。
☆下剋上、成る。 『信長公記』
結論、光秀は、越前に居住していた。
四つの根拠。
以上、全て、説明した。
間違いないと思う。
1「美濃の争乱」に見る土岐氏と朝倉氏の関係。
2 光秀が信長の越前侵攻作戦に深く関わっていたこと。
3「服部七兵衛宛光秀書状」天正元年1573八月二十二日付。
4「遊行上人三十一祖京畿御修行記」天正八年1580正月二十四日条。
⇒ 次へつづく 第204話 17転機
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