見出し画像

本能寺の変1582 第202話 16光秀の雌伏時代 5遊行上人 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第202話 16光秀の雌伏時代 5遊行上人 

はじめに ←目次 ←前回 第201話 
重要 ◎目次 

明智氏は、土岐氏の相続争いに巻き込まれた。

光秀の明智氏は、土岐頼武に与した。

 これが、没落の原因となった。
 そう、思う。

頼武は、越前へ逃げた。

頼武は、朝倉孝景の妹を妻とした。

光秀は、越前と関係が深い。

 光秀の明智氏と越前の関係は、この辺りに遠因があるのかもしれない。

  【参照】目次小 9光秀という男 7美濃の争乱 第63~64話
    第63話
    
永正十四年1517、美濃。
    守護代斎藤利良は、嫡男頼武を守護に据えようとしていた。
    守護土岐政房は、二男頼芸に跡目を継がせようと考えていた。
    長井氏は、頼芸を支持した。
    長井新左衛門には、野心があった。
    美濃は、頼武派と頼芸派に二分された。
    十二月、戦いが勃発した。           「宣胤卿記」
    美濃は、内乱状態に陥った。
    初戦は、頼武方が勝った。
    光秀の明智氏は、頼武方に与した。
    永正十五年1518、再び戦いが起きた。    「宣胤卿記」
    今度は、頼芸方が勝利した。
    斎藤利良は、頼武とともに越前へ逃げた。
    越前の守護は、朝倉氏である。
    当主は、朝倉孝景。
    孝景は、頼武を庇護した。           「御内書案」
    頼武は、孝景の妹を妻とした。
    光秀は、越前と関係が深い。
    永正十六年1519、ここで、流れが変わった。
    斎藤利良は、この機を逃さなかった。
    朝倉孝景がこれを支援した。         「東寺過去帳」
    斎藤利良は、美濃に帰国した。        「汾陽寺文書」
    土岐頼武が美濃の守護になった。
    暫し、平穏がつづく。

土岐頼武に、嫡男頼純が誕生した。

 年齢的に見れば、そうなる。

光秀は、頼純に近い年代だった。

 後の活躍から、遡れば、その様な年代になる。

頼武は、敗戦により没落した。 

 戦死したのだろう。
 頼武方は、主を失った。
 嫡男頼純の成長を待つ。 

  【参照】目次小 9光秀という男 7美濃の争乱 第63~64話
    第64話
    
大永四年1524、美濃。
    土岐頼武に、嫡男頼純が誕生した。
    大永五年1525、長井長弘と新左衛門が巻き返しを図った。
    美濃は、大乱となった。
    頼芸派が大勝した。
    頼武は、行方知れず(没落)。
    斎藤利良、死す。
    長井長弘・新左衛門が美濃の実権を奪取した。
    長井新左衛門は、着々と勢力を伸ばした。
    土岐頼芸が美濃の守護に就いた。
    新左衛門は、頼芸の直臣に取り立てられた。
    新左衛門の野心は、止まることを知らず。



 ⇒ 次へつづく 第203話 16光秀の雌伏時代 5遊行上人 

NEW!!

目次 が更新されました。

これで、全体像がよくわかる!!

毎日更新!!

原因・動機の究明は、この一歩から!!

重要 ◎目次 が更新されました。

本能寺の変

原因・動機は、この中にあり!!

ご注目下さい!!


この記事が参加している募集

テレビドラマ感想文

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?