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本能寺の変1582 目次小 12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 第79~81話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

目次小 12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 第79~81話 

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 第79話
  
1530年代、光秀の少年時代~思春期。
  長井長弘、死去。
  長井新左衛門、死去。
  ここで、長井新九郎規秀が表舞台に登場する。
  道三の国盗りは、父子二代にわたるものだった。
  父新左衛門が基盤をつくった。           「春日文書」
  道三が完成させた。                「春日文書」
  道三は、目的のためには、手段を選ばぬ男だった。  「春日文書」

 
第80話
  
尾張では、織田信秀が勢力を拡大していた。     「言継卿記」
  織田氏のルーツは、越前にあった。
  尾張は、八郡。                  『信長公記』
  尾張の守護は、斯波義統。
  上四郡は、岩倉織田氏。              『信長公記』
  下四郡は、清洲織田氏。              『信長公記』
  信長の織田弾正忠家は、清洲織田氏の家老だった。
  信長は、下剋上の申し子。
  信秀は、尾張随一の実力者に成り上がった。     『信長公記』
  信長が生まれた。            「イエズス会日本年報」 

 
第81話
  
道三が主の長井氏を殺害した。           「春日文書」
  道三の国盗りは、父新左衛門の代から始まった。   『信長公記』
  道三は、土岐頼芸を利用した。           『信長公記』
  頼芸は、道三の野心に気づいていない。
  光秀は、これらのことを知っている。
  土岐頼純の反撃が始まった。
  朝倉孝景が頼純に援軍を派した。
  美濃は、内乱状態になった。
  土岐頼芸と頼純が和睦した。
  長井新九郎規秀(道三)は、斎藤新九郎利政に名を改めた。「春日文書」
  頼芸は、六角定頼と手を結んだ。
  六角氏は、定頼→義賢(承禎)→義治とつづく。
  定頼は、浅井亮政と対立していた。
  浅井氏は、亮政→久政→長政とつづく。
  土岐頼純が越前から美濃大桑城に入った。
  織田信秀が今川氏の那古野城を奪い取った。
  斎藤利政(道三)は、左近大夫を名乗った。
  実権は、斎藤左近大夫利政(道三)が握っていた。



 ⇒ 次へつづく
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