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本能寺の変1582 目次小 上総介信長 6道三の最期 209~219 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。日本史、信長公記、斎藤道三、足利義昭、武田信玄、上杉謙信。『光秀記』

目次小 上総介信長 6道三の最期 209~219 

209 信長は、祭りが大好きだった。          『信長公記』
   信長は、大衆に人気があった。          『信長公記』210 山口父子は、信長を裏切った。          『信長公記』
   今川義元は、尾張へ軍勢を派した。        『信長公記』
   山口父子の最期。                『信長公記』
211 信長は、下四郡の統治に難儀していた。      『信長公記』
212 道三には、三人の息子がいた。          『信長公記』
   道三と義龍の間に、大きな亀裂が入った。     『信長公記』
   義龍は、廃嫡されると思った。          『信長公記』213 義龍は、弟たちを言葉巧みに誘い出した。     『信長公記』
   義龍は、弟たちを殺害した。           『信長公記』
   道三は、驚いた。                『信長公記』
   道三は、山県へ退いた。             『信長公記』214 父子は、ついに戦うことになる。         『信長公記』
   信長は、道三を援けるため美濃大浦に布陣した。  『信長公記』215 戦いは、長良川河畔で始まった。         『信長公記』
216 道三、討死。                  『信長公記』
   道三の首。                   『信長公記』
   義龍は、これ以後、范可と名乗った。       『信長公記』
   義龍は、父親殺しの極悪人である。        『信長公記』217 義龍は、大浦へ軍勢を差し向けた。        『信長公記』
   信長は、および河原でこれを迎え撃った。     『信長公記』
   信長は、道三の死を知り撤退を決めた。      『信長公記』
   信長は、鉄炮を手に殿に立った。         『信長公記』218 道三亡き後の信長である。
   義龍は、岩倉織田氏を味方につけた。       『信長公記』
   岩倉勢が清州城の近隣に放火した。        『信長公記』
   信長は、即座に、これに報復した。        『信長公記』
   信長の周りは、敵だらけになった。        『信長公記』219 岩倉勢が再び攻勢に出た。            『信長公記』
   信長は、これを撃退した。            『信長公記』
 

目次  1~317
目次大 1~317

目次大 上総介信長 177~228 
目次中 上総介信長 177~228
目次小 上総介信長 177~228


信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。

          ⇒ 次回へつづく 

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