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本能寺の変 1582 上総介信長 6 219 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 6 道三の最期 

岩倉勢が再び攻勢に出た。 

 信長は、岩倉織田氏の動勢を探っていた。
 
  一、清洲の並び三十町隔て、おり津(同稲沢市下津町)の郷に、
    正眼寺とて、会下(えげ)寺*あり。
    然るべき構への地なり。
    上郡岩倉より取出(砦)に仕るべきの由、風説これあり。

 信長は、寡勢だった。
 兵力不足である。
 
    これに依り、清洲の町人どもかり出し、
    正眼寺の藪を切り払ひ候はんの由にて、御人数出だされ侯へば、
    町人ども、かずへ(数え)見申し侯へば、
    馬上八十三騎ならでは御座なく候(あるかないか)と、申し侯。

      *会下寺 会下僧(寺を持たぬ修行中の僧)のいる寺。

 岩倉織田氏は、三千ほどで押し寄せた。

    御敵方より人数を出だし、たん原野(不詳)に三千計り備へ侯。

信長は、これを撃退した。

 信長は、清洲の町人たちを動員した。
 数合わせ。
 見せかけの兵。
 「俄、仕立て」、である。
 斯くして、どうにか切り抜けた。

    其の時、信長、かけまはし、町人どもに、竹やりをもたせ、
    御後をくろめさせられ(取り繕い)侯て、
    足軽を出だし、あひしらひ給ふ。
    さて、互に、御人数打ち納められ、
    ケ様に取合ひ半ばの内、
                          (『信長公記』)

 

          ⇒ 次回へつづく


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