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本能寺の変 1582 上総介信長 6 218 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 6 道三の最期 

道三亡き後の信長である。

 難題が、次々に、襲い懸かった。

義龍は、岩倉織田氏を味方につけた。

 程なくして、岩倉織田氏が敵対行動にでた。
 その背後に、斎藤義龍。
 
  然るところ、尾張国半国の主織田伊勢守、濃州の義龍と申し合せ、
  御敵の色を立て、

岩倉勢が清州城の近隣に放火した。

 岩倉勢が攻め寄せた。

  信長の館、清洲の近所、下の郷と云ふ村(愛知県清須市春日)、
  放火の由、
  追々、注進これあり。
 

信長は、即座に、これに報復した。

 岩倉城の近辺に放火。
 やれれたら、やり返す。
 戦国の世の、鉄則である。
 
  御無念におぼしめし、直ちに、岩倉口へ御手遣(てづか)ひ侯て、
  岩倉近辺の知行所、焼き払ひ、
  其の日、御人数御引取り、

信長の周りは、敵だらけになった。

 信長は、道三という強力な後ろ盾を失った。
 その結果、斯くの如し。
 天国と地獄は、紙一重。
 正に、薄氷を履むが如し。
 
  此の如く侯間、下郡半国も過半御敵になるなり。
                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく




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