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本能寺の変 1582 上総介信長 6 214 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 6 道三の最期 

父子は、ついに戦うことになる。

 弘治二年(1556)
 四月十八日。
 道三は、鶴山に陣を構えた(岐阜県岐阜市上土居近辺)。
 稲葉山から北へ一里。
 互いに、視認できる距離である。 

  明くる年(弘治二年)四月十八日、鶴山へ取り上り、
  国中を見下し居陣なり。
 

信長は、道三を援けるため美濃大浦に布陣した。

 道三は、ただ一人の理解者。
 ピンチに陥った信長を、援けてくれた、恩人でもあった。
 *【参照】200 
 何か、心の支えのような存在だったのではなかろうか。 
 信長は、親近感のような感情を抱いていたように思う。
 
  信長も道三聟にて侯間、手合わせとして(これに合わせて)、
  木曾川・飛騨川舟渡りし、大河打ち越え、
  大良(岐阜県羽島市正木町大浦新田)の戸島東蔵坊構に至りて、
  御在陣。

  銭亀(余多の銭瓶を掘りだしたという)、
  爰もかしこも銭を布きたる如くなり。
                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく



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