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本能寺の変 1582 上総介信長 6 217 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 6 道三の最期 

義龍は、大浦へ軍勢を差し向けた。

 次は、信長。
 
  軍(いくさ)終り、頸実検して、
  信長御陣所、大良口(岐阜県羽島市正木町大浦)へ、人数を出だし侯。

信長は、および河原でこれを迎え撃った。

 信長は、この動きをいち早く察知した。
 迎撃態勢をとった。
 「足軽合戦」、とある。
 本格的な合戦には、至らなかった。
 
  則ち、大良より三十町計り懸け出で、
  および河原(不明)にて、取合ひ、
  足軽合戦侯て、
  山口取手介、討死。
  土方喜三郎、討死。
  森三左衛門、千石又一に渡し合ひ、馬上にて切り合ひ、
  三左衛門脛(すね)の口きられ、引き退く。

信長は、道三の死を知り撤退を決めた。

 道三、死す。
 となれば、「これまで」。
 深入りは、無用。
 即座に、撤退を決めた。
 
  山城(道三)も合戦に切り負け、討死の由侯間、
  大良御本陣まで、引き入るなり

信長は、鉄炮を手に殿に立った。

 しかし、この退却が難しい。
 信長は、自らが殿(しんがり)に立った。
 ここで、役に立ったのが鉄炮である。
 
  爰(ここ)にて、大河隔つる事に侯間、雑人・牛馬、悉く退けさせられ、
  殿は、信長させらるべき由にて、惣人数こさせられ、
  上総介殿めし侯御舟一艘、残し置き、
  おのおの、打ち越え侯ところ、馬武者少々、川ばたまで懸け来たり侯。
  其の時、信長、鉄炮をうたせられ、是れより、近々とは参らず・
  さて、御舟にめされ、御こしなり、
                           (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく




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