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本能寺の変 1582 上総介信長 6 216 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 6 道三の最期 

道三、討死。

 最初は、生け捕りにするつもりだったらしい。
 
  長井忠左衛門、道三に渡し合ひ、
  打太刀を推し上げ、むすと懐(いだ)きつき、
  山城を生け捕りに仕らんと云ふ所へ、

 だが、・・・・・。
 これが梟雄の最期である。

  あら武者の小真木源太走り来たり、
  山城が脛を薙ぎ臥せ、頸をとる。
  忠左衛門は、後の証拠の為にとて、山城が鼻をそひで、退きにけり。

道三の首。

 義龍は、鼻の欠けた父親の首を実検した。
 多くの重臣たちの面前である。
 これが、戦国時代。 
 
  合戦に打ち勝ちて、頸実検の所へ、道三が頸持ち来たる。

義龍は、これ以後、范可と名乗った。

 中国の故事による。

  此の時、身より出だせる罪なりと、得道(得度)をこそしたりけり。
  是れより後、新九郎はんか(范可)と名乗る。

  古事あり。
  昔、唐に、はんかと云ふ者、親の頸を切る。
  夫者(かのもの)、父の頸を切りて孝となるなり。

義龍は、父親殺しの極悪人である。

 太田牛一の評である。
 そのことは、昔も、今も、変わらない。

  今の新九郎義龍は、不孝・重罪・恥辱となるなり。
                          (『信長公記』)
 


          ⇒ 次回へつづく


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