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『所詮人間程度』 前半



『所詮人間程度』 



マスターキーで角部屋に入ると、カーテンが閉められた部屋の中は薄暗かった。しかし、その薄暗い中でさえも部屋の汚さが尋常ではないことが明瞭である。烈しく乱れたダブルベッドの上に散乱している衣類やその辺に置いてある物などから察するに、若い男女が泊まっている部屋らしい。ベッドの前にはインルームダイニングのテーブルがあり、その上には食い散らかした料理の皿、ひと口だけ食べたホールのケーキ、ワインクーラーなどが置いてあった。
また、部屋の中は強烈な臭気と澱んだ空気が横溢しており、むせかえるような苦痛を私に与えてきた。
「脳みそがいい感じに腐っているのかもなー。こんなことをする人間にはなりたくないなー」
そう思いながら、カーテンを全開にした。
陽射しが部屋を照らすと、窓際の丸いガラステーブルの上に放置してある二つに折り畳んだ一万円札の束とばらばらに散らばった多量の小銭が目に飛び込んできた。また、テーブルの下にはハイブランドの箱がいくつも重ねてある。一体、どんな仕事をしている客なのかは知らぬが、こんなところに現金や高価な物を無造作に置いておくその無神経さに眉をひそめた。そのとき、「ずいぶんと汚い部屋だなァ。気でも狂ってンじゃないのか?」と言いながら、荒木さんが清掃カートを押して部屋に入ってきた。



荒木さんはパートの女性であり、このホテルで十年以上働いているベテランさんである。七十をすぎている荒木さんは、小柄でおかっぱ頭だが、精悍な顔をしていて、とにかく仕事ができる人だった。
荒木さんは生ぬるい番茶を飲んだような顔をして、
「わたし、こんなに汚い部屋は始めてだァ。ここで長く働いてっけど、こんなにひどいのは見たことねーな。さすがにこれはわたしひとりでは無理よ!」
「そうですよね。しかも、こんな部屋を一時間ジャストで清掃しろって無茶なことを言うんですから。あのやろう、現場の人間をこき使いやがって…」
「わたしたちは機械じゃないンだからね。ここは年寄りだろうが、容赦ない地獄的な職場だべよ」
「ゲストがそうおっしゃるので、どうにかやってもらうしかないよね。とか冷然と言うんですよ」
「菊池は昔からそういう男なンだよ。人が足りなくて清掃が間に合わないときにヘルプよこすって言って、誰も来ないからおかしーと思って電話したら、忘れてた、とか平気で言うようなグズなんだよ」



菊池とはこのホテルの社員であり、五十前半の小太りで、少し猫背であり、奇蟲の寄せ集めみたいな醜悪な顔をした男である。平生、菊池は低層階にある事務所におり、客室部門のリーダーなのだが、どんなに大変なときでも現場に来ることがなく、他の社員のように様子を見に来たり、清掃を手伝ったり、シャンプー類などの備品を届けに来ることもなかった。とにかく、菊池は指示だけで自らは動かず、すべてを現場に任せきりなのだから、呆れてしまう。
こんな愚物がよく出世できると感心していた。だから、現場の人間から反感を持たれ、「何もしない、役立たずの素人」などと揶揄されて皆から嫌われているのだ。私は菊池を軽蔑している。こういう男が上の立場にいるから、この職場はダメなのだろう。


高層階である角部屋の窓からは眼下に広がる市街地が見渡せた。街の外れの山の麓をうねるように流れている河川が、錆びた鉄のような色をしていて、午後の陽射しを浴びてキラキラと光を放っている。
「荒木さん。ひとり、ヘルプを入れましょうか?」
「ンだね。誰でもいいから、呼んできてちょーだい。あの新人のおねえちゃんでもいいからさ!」
そう言った荒木さんの口の中の金歯が見えた。
私は角部屋を出て、阿久津さんが清掃している部屋へ走った。阿久津さんは他の部屋でバスルームの清掃をしている途中だった。奥のベッドルームは完璧に仕上がっている。阿久津さんは色白の顔を真っ赤にして、洗面台の大きな鏡を吹き上げタオルで拭いていたが、急いでいたので、無遠慮に声をかけた。


阿久津さんを連れて角部屋に戻ると、荒木さんは手前のベッドのシーツを剥いでいた。奥側のベッドはまだ手つかずの状態である。そのベッドのシーツは渦を巻くような形で乱れており、枕元にあるナイトテーブルのコンセントにはドライヤーが差しっ放しになっていた。また、ベッド横の木製の丸テーブルの上には食べかけの鰻重と朱色の錠剤が置いてあり、その他にも大量のペットボトル飲料、缶ビール、炭酸水の瓶、ワインボトルなどが置いてあるが、それらのすべてが飲みかけだった。私は無性に腹が立った。この部屋に泊まっている客はどんな人間なのか。こういうところにその人間の本来の人間性が顕現するのだと思う。人間の心に美しい部分と醜い部分があるとしたら、彼らの醜い部分をまざまざと見せられているような不愉快を感じた。



奥のベッドは私が作るので、バスルームの清掃を阿久津さんに任せることにした。私はベッドの周りに落ちているタオルやナイトウェアを拾い上げて、荒木さんの清掃カートに放り込んだ。そして、乱れたベッドを力任せに剥いだ。先にデュべカバーをどけると、ヘアピンとヘアゴム、剥がれたジェルネイル、粉砕した塩煎餅、甘栗のカス、くしゃくしゃの五千円札、女性の靴下とブラジャーが出てきた。また、枕の下からは使用済みのコンドームが四個も出てきたので、ぎょっとしながらミドルシーツを剥いでいると、鼻糞が飛んできて私の口の中に入った。
反射的に躁狂しそうになったが、横に荒木さんがいるし、バスルームには阿久津さんがいるので、パートさんたちから変な人だと思われたくないというくだらない虚栄心が邪魔をして、しばらく我慢していた。しかし、口の中の気持ち悪さが拭えず、唾を飲み込むことができなくなったので、バスルームの洗面台の蛇口をひねり、涙目になって口をゆすいだ。



洗面台には飲みかけのシャンパングラス、外国製のハミガキチューブ、洗顔フォーム、化粧水、美容液、クリーム、ヘアスプレー、ヘアワックス、化粧品、香水の壜、美顔器などが所狭しと並んでいた。バスタブの蛇口からはドブドブとお湯が出ている。
阿久津さんはバスルームの入口に背を向けて床に両膝をつき、トイレブラシで便器を擦っていた。細くて長い首を垂らして便器の底を注視している。
阿久津さんは大学生の新人アルバイトだが仕事ができ、落ち着きのある知的な雰囲気の女性だった。



ベッドルームに戻ると、荒木さんが手前のベッドを完成させていた。そして、クローゼットに新しいバスローブとナイトウェアとスリッパとシューミットをセットしている。ベテランさんはやはり早い。
私は鼻糞のせいでロスした時間を取り戻すべく、全神経を集中させ、敏捷な動きでベッドを作った。
ベットカバーを被せるときなど猛獣のような烈しい動きで髪の毛を振り乱し、両手両足をやかましくバタバタさせながら手際よく動いた。もはや人の目など気にしていられなかった。結局、一台のベッドを作るのに十分もかからなかった。最後にベッドの下を確認したら、大人用おしゃぶりが落ちていた。
私は手を伸ばしてそれを拾い、「なんだよこれ、気持ち悪いな…」といぶかしく思いながら、それを枕元のナイトテーブルの上に投げるように置いたとき、私が持っているPHSが鳴ったので電話に出ると、
「ああ、成田さん。今、清掃してる角部屋なんだけどさ、私、言い忘れていたことがあって。水を追加で四本、セットお願いします。あと、トイレットペーパーは必ず交換してね。うるさいゲストだから埃と髪の毛にも気をつけて。じゃあ、よろしくゥ」
などと言うと、乱暴に電話を切った。肝心なことを伝え忘れていた菊池の仕事に対するいい加減さに心底腹が立ち、私は電話口で唾を飛ばす語気で、
「何が、じゃあよろしくゥ、だ。このうすのろハゲだるま!お前がここへ水四本もってこいやッ!!」
などと口汚く罵る寸前だったが、どうにか堪えた。



すると、ゴミ箱から溢れた大量のゴミをリネン庫へ捨てに行ってくれた荒木さんが、新しいゴミ袋や冷蔵庫に補充する飲料を持って部屋に戻ってきた。
「おう、成田君。ベッド、つくるの早いね。しかも、きれいだ。いやー、たいしたもンだ!」
「あ、ありがとうございます!」
荒木さんのようなトップクラスに仕事ができるベテランさんに褒められることは素直に嬉しかった。
「おねえちゃん!こっちはもう終わってっけど、そっちはどうだい?」
と明るい声を出して、荒木さんはバスルームに呼びかけた。しかし、荒木さんの声が聞こえていないのか、阿久津さんの反応がないので、私たちはバスルームへ行くと、スクイージーを手に持った阿久津さんが前髪に泡をつけながらシャワーブースから出てきて、「もう少しです!」と言った。すると、荒木さんが、「わたしが洗面台のアメニティを補充すっから、おねえちゃんはシャンプーとリンスとボディソープを急いで補充してけろ!」と言って、清掃カートに括りつけてあるアメニティを入れた紙袋を取りにいった。私はバスルームを二人に任せて、ベッドルームの点検をした。冷蔵庫には客の飲みかけのカフェオレの一リットルパックとフェイスシートが入っていた。飲み物はアルコールとジュースは補充されていたが、水が補充されていなかった。荒木さんが見落としたのだ。こういうミスは誰にでもある。それとは別に追加の水四本もセットしなければならないので、私は部屋を出てリネン庫へ走った。



部屋に戻ると、二人はバスルームの床をコロコロしていた。私がハンディモップを高速で動かし、テーブルやテレビの上の埃を払っていると、阿久津さんが先にバスルームから出てきて、「こっちも終わりです!」と言った。そして、腰にさしているハンディモップでベッドの枕元にあるナイトテーブルの上の埃を丁寧に払った。そのとき、私は阿久津さんが左利きだったという些細なことに気づけるほどの心の余裕が生まれていた。荒木さんが、「ねー、成田君、終わったよ。早く点検してけろー」と言って、バスルームから出てきた。私は二人に礼を言うと、阿久津さんは顔を赤くして頷くだけで何も言葉を発さず、荒木さんは、あいよー、と素っ気なく返すと、先に部屋を出て行こうとする阿久津さんに、
「おねえちゃんみたいな若い人は、いくら働いても体が疲れねーべ?な?」
「いや、疲れます」
振り返った阿久津さんが真面目な顔でそう言うと、荒木さんは何だか嬉しそうにけらけらと笑った。


部屋に残った私は二三分で隅々まで点検を行った。補充ミスはないか、髪の毛は落ちていないか、トイレットペーパーは交換されているか。それらを限られた僅かな時間で隈なくチェックし、部屋の中から事務所に電話をかけて、清掃が完了したことを社員に伝えた。部屋を出て、改めて時間を確認すると、部屋に入ってから五十五分が経っていた。五分余っていた。私ははにかんだ。五分余らせて、清掃を完了させたことへの昂揚感と達成感に胸が躍った。


廊下を小走りしていると、額から汗がぽたぽたと垂れた。そして、点検する部屋に着くと、PHSが鳴り、社員から南側の客室の清掃を急いでくれと言われた。今、そこには弓野さんという六十くらいの白髪のパートの女性が入っている。急いでその部屋へ行くと、奥のベッドルームは完成していたが、手前のバスルームの清掃が終わっていなかった。私は三上君という派遣アルバイトの男性を呼び、二人で協力してバスルームを仕上げてもらうことにした。
ふたたびPHSが鳴る。今度は他の客室からの清掃依頼である。ただし、そこはゴミ袋とバスタオルの交換と水二本の補充だけでいいと言う。私は内心でほっとし、両手にバスタオル三枚と水二本とゴミ袋を抱えて、その客室へ行った。ドアをノックすると、部屋の中からぼそぼそという男女の話し声が聞こえた後、顔の四角い髭面の白人男性が出てきた。私はバスタオルと水を渡した。男性はゴミ袋は自分で交換すると言った。私は英語が話せないが、おそらく彼はそんなことを言ったのだろう。それよりも、部屋の中の香水臭さとやたらとギターの早弾きが入る激しい音楽が大音量で流れていることが気になって仕方なかった。男は歯列のきれいな白い歯を見せ、愛嬌のある笑顔でドアをゆっくりと閉めた。



PHSが鳴る。荒木さんからだった。今、清掃に入っている部屋のシャワーブースの排水口のフタが壊されていて、中に脱糞されていると言う。私は笑いそうになったが、すぐに事務所に電話をかけて、設備担当者に確認と修繕を依頼した。PHSが鳴る。社員からだった。弓野さんが既に仕上げていた部屋の点検を急いで欲しいと言う。そして、その部屋の点検をしている最中にPHSが鳴った。今度は阿久津さんからだった。今、清掃している部屋のブラインドカーテンが引き裂かれていると言う。点検を終わらせて、すぐに阿久津さんがいる部屋へ向かっているとき、尿意を催した。しかし、リネン庫のトイレに行く時間などなかった。尿意を我慢して廊下を歩いた。今は一秒も無駄にできない。PHSが鳴る。弓野さんと三上君が清掃していた部屋が完成したと言う。そこも点検に行かなければならない。
私は火を噴く山のように全身を汗まみれにして、がむしゃらになって廊下を走り続けた。しかし、私の進行を妨害するようにPHSがしきりに鳴り続けた。その煩わしさと付き合いながら、私は仕事のミスを回避し、目の前の物事に対応していかなければならなかった。これがフロアリーダーという仕事である。らくなものではない。しかも、こんなに大変な思いをして働いていても、時給が県の最低賃金のただのアルバイトなのだから口惜しくて堪らなかった。しかし、今は他に仕事がないから仕方がない。


私は左右のこめかみからダラダラと垂れてくる汗を拭いながら、弓野さんと三上君が清掃した部屋を点検した。無論、部屋自体はきれいだったが、ベッドの横にあるナイトテーブルのライトの一個が断球していた。急いでリネン庫に戻り、新しい電球を持って部屋に戻った。そして、ライトの明かりを確認して部屋を出るときに、ふとバスルームの洗面台の鏡を見ると、私の顔が不潔に脂ぎっており、左目が真っ赤になっていた。白目の血管が切れたのである。痛みはないが、目玉がアメリカンチェリーのようになっていた。それがはじめてのことだったので、些か狼狽したが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。赤くなった目はすぐには治らない。
部屋を出て、廊下を小走りしていると眩暈がした。ホテル全体が左右に揺れているように感じた。私の体はもはや限界だった。今日だけで三日分くらい働いているような疲労が全身に重く圧しかかっていた。歩きながら、頭が首から取れて四肢がばらばらになり、体がこっぱみじんに粉砕しそうだった。


         〜後半へ〜




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