心地よい波動を保つこと、それが人生を豊かにする方法となる。我々はネガティブな思いに引っ張られる傾向がある。だからこそ、日頃から自分の感情を観察し、心地よい波動を保てるよう努めていかなければならない。心地よい波動は心を安らげることで放つことができ、そんな安心感が幸福へと導いていく。
余白を大事にして生きる。中身を充実させようという思いが強よすぎると、力が入ってしまいバランスが悪くなる。けれど、余白と中身のバランスを上手に取れば美しさを保って生きていけるようになる。この世界は陰陽の組み合わせで出来ていている。余白を楽しんで生きるとき、人は心地よく生きていける。
実相とは、ありのままの姿という意味である。この世界は自分の思いがありのまま現実に反映されている。我々は日々、自分の心の実相と相対しながら現実を生み出している。このことを知って理解したなら、否が応でも自分と向き合わなければならなくなる。実相のままに生きるには制限を外していけばいい。
生きることの本質は、今のこの瞬間を楽しむことにある。老若男女、誰もが分け隔てなく喜びを感じて楽しく生きる、それが理想の世界。そういった世の中を創っていくには、これまでの考え方を一新させていかなければならない。日々、喜びで生き、それを分け合い循環させていく。それが生命の本質である。
幸せは、新鮮な喜びを心身に浸透させることで実現できる。我々は、これまで蓄積させてきた思いを基に現実を生み出している。このため人生に新しい変化を起こすには過去の思いを新たにし、その思いを心と体に浸透させていかなければならない。喜びとともに新たな思いを浸透させれば、それが現実となる。
どんなことでも実際に行えば身体に反応が起こり、その反応が感情となって現れる。つまり、感情は実体験によって生まれるものであり、その感情によって自分を知ることができる。実践の「践」という字には「ふみ行う」という意味がある。自分の道は、一歩一歩、丁寧にふみ跡を残していくことで創造する。
この地球上においては、人間一人ひとりは小さな存在でしかない。しかし人生の主は自分でしかなく、この自分を寛大に緩めていけば広い視野を持つことができ、物事を多角的に観ることができるようになる。寛大さは余裕の現われであり、余裕を持って生きていけば人生を優雅に歩むことができるようになる。
共に生き共に栄える、これが生命の本質である。奪い合っていると生命としての万能性が失われ先細りしていくが、共存共栄の道を選べば多様性が生まれ、生命としての強みを増していけるようになる。生命の強みとは成長する喜びであり、共に栄え成長していけば、生命そのものの可能性を増大していける。
物事を洗練させるには、試行錯誤や取捨選択といった研磨の作業が繰り返される。このため洗練に至れば、強さと美しさとシンプルさを兼ね備えることになる。我々も自分を洗練させていけば強さと美しさとシンプルさを得て、高い波動を放てるようになるだろう。自己洗練の先にあるのは無常の喜びの世界だ。
内観とはいろんな角度で物事を観て、ひとつの答えを導き出すこと。このため内観をしていると気付きが起こりやすくなり、内観を継続的に行っていると直観力が向上していく。また、文章を書くということは内観することでもあり、文章を書く習慣を身に付ければ直観力が向上し、人生に輝きを与えられる。
泰然と生きる。それが我々の目指す生き方といっていい。急いですることに、愛を見出すことは難しい。愛は常にゆとりがあって穏やかで安らぎがある。人が愛に目覚めれば、泰然と生きるようにいなる。自分が望む理想の姿を想像するとき、その振る舞いは泰然とし、好きなことや愛することに没頭している。
人の思いは影のように隠れている。しかし、そういった目には見えない思いを人は感じ取れる。影響とは、目には見えないことを心で受け取って感じることであり、目には見えないことを響かせることでもある。本当のことは目には見えない。だが、感じ取ることはできる。人の思いが相手に影響を与える。
可能性は、許可することで広げられる。許可するとは、出来ないという思いをなくし、出来るという思いを持つこと。そうやって自分に許可を与えることができれば、どんなことでも実現できる。自分の能力を認め、それを才能に変化させれば許可できることが増えていき、可能性を開いていけるようになる。
どんなことでも噛み砕いて吸収すれば、適切に腹に落とすことができる。腹に落ちたものは新たな活力となり、自身の可能性を広げることができる。気づきという発見を体験を通じて咀嚼し吸収していけば、それを自分のものにすることができる。発見力と吸収力を磨いていけば、自分らしさの幅を広げられる。