見出し画像

『所詮人間程度』 後半



『所詮人間程度』



間も無く、午後四時半になろうとしていた。
本来、朝九時半から働いているパートさんは午後四時半で上がることになっているのだが、その日は未清掃の予約部屋が残っていたため、皆で残業することになった。そして、それを現場のスタッフに伝えるのも私の役目である。私は清掃中の客室を回り、ひとりひとりに声をかけた。誰も嫌な顔をしなかった。文句や愚痴を言わず、二つ返事で清掃を続けてくれた。その後、リネン庫で顔を突き合わせても、誰もそろそろ上がりたいという素振りさえも見せようとしなかった。皆がフロアの客室を完成させるというひとつの目的に向かって馬車馬のように働いていた。怠惰な人間などひとりもいない。私は皆に対して尊敬と感謝の念を抱いた。どんな仕事でもそうだが、カッコつけずに、なりふりかまわず一生懸命になって仕事をしている人の姿は美しいと思った。



しかし、私も含めて、皆、朝から休みなく働き続けているので、体力と気力がそろそろ限界だった。
とにかく、休む隙を与えないほど、次から次とやることが迫ってくるので、身体が均衡を失っている。
案の定、リネン庫に戻ってきた荒木さんはぐったりしていた。平生の精悍な顔の面影がなく、少し青ざめていて、落ち窪んだ目の奥が虚ろであり、化粧崩れしたひどい顔になっている。一方、阿久津さんも汗で濡れた前髪が烈しく乱れていて、アイメイクも犬の目脂のように崩れていたが、「まだやれます。がんばります」と言って、柔和な笑顔を見せた。



伸びた前髪がうっとうしかった。前髪をかき上げながら栄養ドリンクを飲み、残された体力を搾り出すように前のめりになって、リネン庫を飛び出した。そして、残りの未清掃部屋のシーツを狂ったように剥いでいる三上君に声をかけて、そのままバスルームの清掃に入るように頼んだ。三上君は朝からベッドのシーツばかり剥いでいるので、大量の埃を被った頭が真っ白になっている。それでも三上君は、ハアハアと呼吸を荒げてシーツを引っ張り続けた。


清掃完了の客室を点検するために廊下を歩いていると左目がズキズキと痛み出した。しかし、左目の痛みなど今の私にとってはどうでもいい些事にすぎない。そのまま、客室のバスルームの点検を続けた。
ウォッシュレットのノズルを確認すると、ノズルの先端に糞の破片がこびりついていた。清掃時に見落としたものらしい。その糞の破片を吹き上げタオルで擦っているとタイミング悪く、PHSが鳴った。
「こんなクソ忙しいときにうっとうしいなッ!」
と言いながら、私は渋面で電話に出ると、
「成田さん、さっきの角部屋なんだけどさ…」
と言う菊池のくぐもった声が耳に入った。


途轍もなく嫌な予感がして、手足に鳥肌が立った。
動揺して、吹き上げタオルから手がずれて指先に糞がつき、PHSを持つ左手の手首が痙攣した。
菊池の次の言葉がくるまでに、私は頭の中で、角部屋での清掃時のことを振り返った。しかし、ミスをしていないという強い自信が持てなかった。
自分では点検まで完璧にやったつもりでも、うっかり何かを忘れてしまうこともあるからだ。すると、菊池はいかにも深刻であるというような口調で、
「ゲストからのクレームが来ていてね…ひとつは、バスルームのトイレがびしょびしょに濡れていたということ、もうひとつは…便器の横のサニタリー袋が交換されていなかったということなんだ。ゲストの方、けっこう怒っていて。これから永山をゲストの部屋へ謝罪に行かせるところなんだけど、成田さんにも永山と一緒に入って、現場の状況を確認してもらいたいんだ。今からいい?」
「はい。でも、トイレはちゃんと確認しましたよ」
「ちなみにトイレは誰が清掃した?」
「阿久津さんですが…」
「阿久津さんかぁ。彼女はまだ新人だしなぁ」
「いや、阿久津さんが清掃した後に、私、確実に確認しましたから。トイレットペーパーの交換の件もあったので、何ならいつも以上に用心深く…」
「阿久津さんに電話を代わってもらってもいい?」
菊池は言下に私の言葉を遮るので腹が立ったが、仕方なく、私は廊下を走り、阿久津さんが清掃している部屋へ行った。阿久津さんは疲れた顔でベッドをつくっていて、PHSを渡すと顔を曇らせた。
そして、ゆっくりと壁際に近づいていき、「はい。確かに交換しました…」などとか細い声で菊池と話していた。少し丸めた背中を私に向けている。部屋の窓から見える市街地の先には山々の起伏が見えていて、正面の山の尾根に沈みかけている夕日がきれいだった。阿久津さんは電話を切ると、おびえた顔をして、「成田さん。わたし、ちゃんと清掃したんですよ」と言って私の顔を見た。そのときの阿久津さんの顔が親に怒られたときの幼い少女のように見えて胸が痛くなった。私は烈しい動悸に襲われた。


菊池の部下のひとりである社員の永山が角部屋のドアをノックした。すぐに女が出てきた。根元だけ黒い金髪ロング、眉のきれいな、二十半ばの美人な女である。女は下唇の左右の端にそれぞれ口ピアスをつけていて、黒のワンピースを着ていた。右腕にはスズメのタトゥーが彫ってある。また、スリッパを履いておらず、足は素足であり、足の爪にはよくわからない柄の派手な色のフットネイルが塗られていた。部屋の中は照明の光がしぼられていて薄暗い。奥にあるベッドルームの手前のベッドには男が腰かけていた。両サイドを剃り上げた赤髪、売れないインディーズバンドのドラムみたいな顔をした三十くらいのがたいがいい男である。男はゾウリムシのような形の柄が散りばめられている黒の半袖シャツ、アンクルカットのスキニーパンツ、足元は白のスニーカーであり、貧乏揺すりをしながらこっちを見ていた。すると、女は重苦しい空気を一蹴するように愛想良くにこにこしながら、「中へどうぞぉ」と体が痒くなるような甘ったるい声を出して言うので面食らった。私は自分の顔が堅くなるのがわかった。



三十分くらい前に私たちが清掃した部屋の中は既に散らかっていた。ソファに女の派手な色の衣類が脱ぎ捨ててあり、男が腰かけている手前のベッドのシーツは乱れ、奥側のベッドの上には女の物と思しき、開けた状態のトランクケースが置いてあった。
のみならず、ゴミ箱には食べ残したちらし寿司とカップラーメンとスナック菓子のゴミが突っ込んであり、ゴミ箱の横にはハイブランドのバッグやアクセサリーなどの空箱が山のように積んであった。
また、さっきまでこの部屋にいなかった病的に太ったカワウソのぬいぐるみが窓際のソファの上で悠然とくつろいでいた。清掃時、私がナイトテーブルの上に置いた大人用おしゃぶりはなくなっていた。



永山がまず女に謝罪して、奥の男にも謝罪した。
ただし、その謝罪の仕方がいかにも事務的な謝罪の仕方だったので、誠意があまり感じられなかった。
女は笑顔でへらへらしながら、
「まあ、いいんですよ。ははは。次から気をつけてもらえれば。はは。ね?ね?」
と言って、後ろを振り返り、男に目配せした。
そして、意地悪そうな笑みを浮かべて、
「でも、一応、写真とか、撮らせていただきましたからー。ははは。この部屋の清掃前と清掃後の写真をね。まー、なんと言うかー、何か物がなくなっていたりする恐れもありますから。ははは」
などと言って、スマホで自分の顔を見ていた。
女が気色の悪い笑みを見せるたびに虫酸が走った。また、女の背後でこっちを見ている男が、手持ち無沙汰のように、右の手のひらをベッドの縁に乱打するその小さな雑音が神経に障って仕方なかった。
気のせいかもしれないが、何だか、この部屋は腐った畳のような臭いが漂っている。もしかしたら、これは彼らの体臭なのかもしれない。不愉快な臭いである。私は顔を歪めながら、彼らに頭を下げた。


それから私はひとりでバスルームに入った。
バスタブにためられた湯がショッキングピンクに染まっていて、水面には泡と毛髪がたゆたっていた。
また、阿久津さんがきれいに磨いた洗面台の鏡は水で汚れており、目線の高さに二枚のカラコンがへばりついていた。挙句、蛇口には何かベトベトした乳白色のものが付着して、何だか不潔な感じだった。



トイレを確認すると、客に指摘された通り、便器の便座が濡れていて、床も濡れていた。また、便器の横の壁にかけてあるサニタリー袋が膨らんでいた。しかし、それらはどちらも明らかに不自然だった。私は、はっとしたが、黙然と便座をタオルで拭き、サニタリー袋を新しいものに交換した。そのとき、「おい、こら!お前、客を舐めてんじゃねーぞ、このやろう!!」と言う男の声が響き渡った。隣の部屋にまで聞こえそうな胴間声である。全身から嫌な汗が出た。忽ち背中がびしょびしょになり、額からぽたぽたと汗が垂れた。バスルームから出ると、激昂して不動明王みたいな顔になっている男が、
「こんなバスタオルなんか何枚ももらったって、何にもならねーからな。お前、今の状況がわかってる?トイレが壊れてるんだから、すぐに直せや!」
「申し訳ございません。では、お客様。こちらで同じタイプのお部屋を今すぐにご用意させていただきますので、少しお時間いただきますが、ルームチェンジということでよろしいでしょうか?」
「ん?お前、俺らをおちょくってんの?今はそういうことじゃねーだろう。ダメだ、こいつ。完全に客を舐めてるよね?お前じゃなくて、もっと、上のヤツを呼んでこい!こっちは高い金を払ってここに来てんだ!いい加減にしねーと、やっちまうぞ!」
と言うと、女が横から割って入り、へらへらしながら、「まあ、まあ」と言って、男をなだめた。
しかし、昂奮している男は、「こんなクソホテル、もう二度とこねーからなァ!!」とうそぶいた。


部屋を出るとき、ドアの隙間から見えた女の狡猾な顔が憎たらしかった。奇怪な光を放っている黒目の大きな眼球に私と永山の強張った顔が映っていた。一方、男は悪辣な顔をして、ベッドの上で胡坐をかいてスマホを触っていた。部屋の薄暗さも相俟って、彼らが人間の形をした二匹の悪魔のように感じられた。ドアノブを握る私の手が油汗にまみれた。



廊下を歩きながら、永山は乱れたネクタイを無言で直した。私は膨らんだサニタリー袋を永山に見せた。袋の中には煙草の吸殻が三本と鼻をかんで丸めたティッシュが詰め込まれている。それを見た永山は暗い顔をして、「これはやってますね」と声をひそめて言った。無論、ここは禁煙フロアであり、私たちが清掃時にこんなものに気づかないはずがない。ただの嫌がらせだった。こういう愚行が彼らにとっての快楽のひとつであるならば相当な悪趣味であり、心が貧しい不健全な人間である。こんな不道徳なことをしている愚かな人間が私たちと同じ世界で得手勝手に生きている事実が私を憂鬱にさせた。



額に汗を滲ませた永山は、「まれにこういうことがあるんです。上に報告しておきますから…」と言って苦笑した。私が黙っていると、永山は、「今回の件で、ネットのうちの掲示板にクレームを書き込まれるかもしれませんが、成田さんは何も悪くないので気にしないでください」と言って、エレベーターがある方へ歩いていった。この世の中は理不尽なことばかりだ。私は腸が煮えくり返っていたが、永山と別れて、ひとりで廊下を歩いていると、突然、時雨に打たれたような痛切な虚しさに襲われて、怒りは不思議と何処かへ消え去ってしまった。そして、胸に残ったのは、吐き気がするほどの厭悪だった。


私はかすんだ目をしばたたせながら廊下を歩いた。
乱れた心を落ち着かせようと、廊下の突き当たりの薄暗さをぼんやり見ていたら、その薄暗い部分から不気味な触手がにょきにょきと生えてきて、それが私の体に絡みつき、そのまま闇の中に引きずりこまれるような恐怖を感じた。すると、手足の先が急激に冷たくなり、頭がふらふらして視界が途絶した。


私たちは不死身ではない。生身の人間である。
いよいよ、自分の体が壊れたのかもしれないと観念していると、何処からともなく遠く小さく聞こえてくるキイキイという清掃カートの車輪の音が聞こえてきた。まぶたを開くと、目の前には数秒前の廊下が何も変わらずに突き当たりに向かって延びているだけである。私は廊下の中途で立ちくらみを起こしていたのだ。背中が油汗で不快に濡れており、両足が泥のように重かった。左目もズキズキと痛む。
思うように廊下を前へ進めない。泥濘の上を歩いているように、いちいち靴が床にめりこんでいく。


そのとき、PHSが鳴った。それがあまりに突然に感じたので、びっくりした私はPHSを手から滑らせてしまった。それでも床に落ちたPHSは鳴り続ける。
「あ、成田さん。今、いい?まだフロアにいる?ああ、よかった。ひとつ、お願いしたいことがあるんだけど、今夜、予約が入っていなかった西側の部屋に急遽、ゲストを入れることにしたから、今から急ぎで点検してもらいたいんだ。さっき、その部屋の点検は明日で大丈夫と伝えたんだけど、どうしても必要になってね。で、実はもう、ゲストが到着しているんだ。今、ロビーで待機してもらってる状況だから、急いでもらっていい?五六分でいける?」
などと菊池に言われた私は、思わずカッとなり、
「何が、五六分でいける?だ、バカ!こんな疲弊してる状態ですぐに点検なぞいけるかっ。ベッドルームのチェックして、バスルームのチェックして、窓ガラスのチェックをして、アメニティやタオル類のチェックをして、クローゼットのチェックをして、冷蔵庫の飲料のチェックをして、臭いや髪の毛や埃がないかのチェックもしなければならないんだぞ!お前がここに来て、代わりに点検してみろやッ!口にセメント流しこんでやるぞ、しょんべんたれ!」
という野蛮なセリフが口から出る寸前だったが、元来、根が小心者であり、腹の中でいくら強気なことを思っていても保守的な私には何も言えなかった。



客室のドアを閉めたときには体の芯から疲労を感じた。覚束ない足取りでリネン庫に戻ると、すべての予約部屋の清掃を終えたパートさんたちが後片づけをしていた。私はパートさんたちに礼を言い、ふたたび廊下に出ると、フロアを一周して、何か問題などがないかを確認した。午後六時半を過ぎている。
大半の客室が埋まっているはずなのだが、なぜだかフロア全体が死んだように静まり返っていた。



その後、誰もいないリネン庫へ戻り、持ち物をまとめて、部屋の入り口にある電気のスイッチをパチンと消すと、これが自分の人生の最後の瞬間であるかのようなわびしい気持ちになって涙が出てきた。
私は下降するエレベーターの冷たい鉄の壁面に背中で凭れかかりながら、「こんなことはいつまで続くのかねー。俺はあといくつくらいの憂鬱を乗り越えて生きなければならないのか。まったくわからないし、想像もつかないな。いいかげん、この苦しい生活の繰り返しから解放してくれよ」とひとりごとを言って、大きく深呼吸をした。そして、客の忘れ物などがたくさん入っているプラスチックのカゴの重さを全身で感じながら、少しだけ目をつむった。


          〜了〜




愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
大変感謝申し上げます。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?