本能寺の変1582 重要 ◎第151話 光秀の悲願 明智の再興 原動力 光秀の性格、忍耐強い 執念深い 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第151話
光秀の悲願 明智の再興 原動力
光秀の性格 忍耐強い 執念深い
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*以下は、第151話から重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
◎明智の再興。
光秀は、歴とした戦国武将*1。
正に、男盛り。
その前半ぐらいの年頃であろう。
まだ、若い。
体中のエネルギーが煮え滾(たぎ)っていた。
諦めるを良しとせず。
「我が家の復興」
何としても成し遂げる。
「悲願」
その思いを胸に秘めて。
◎この一事が光秀の原動力になった。
天文十六年1547。
光秀は、主君土岐頼純を亡くした*2。
これによって、美濃における全てを失った。
「土岐の随分衆」から、「牢人」へ。
明智氏は、没落した。
だからこそ、その様な思いに至ったのではないか。
そして、その情熱は、冷めず。
以来、天正十年1582まで、実に、三十五年もの長きに亘って、光秀の
心を支えつづけた。
すなわち、精神構造の根底にあった。
それが、光秀の行動力の源泉=原動力になっていたものと思う。
そう、考えるが、如何だろうか。
◎光秀は、忍耐強く、執念深い。
光秀は、忍耐強く、かつ、執念深い。
言い換えれば、粘り強い。
この点については、信長と同じである。
光秀は、信念の人。
一途な男なのである。
信長と出会ってから後。
すなわち、永禄十一年1568以降。
光秀は、その一事に、全力を投入する。
正に、水を得た魚。
ここで、光秀は、頭角を現す。
目覚ましい活躍、勲功、大出世。
そして、やがて、見事、大願成就。
これらが、そのことを証明している。
*1【参照】目次小 9光秀という男 1フロイスの証言 小
第51話
光秀は、坂本にいた。
坂本城は、明智の誇りであった。『日本史』
☆これが光秀の実像である。
光秀は、織田家の新参者だった。『日本史』
☆光秀は、典型的な戦国武将だった。『日本史』
☆光秀は、信長と同じタイプの人物だった。
光秀は、築城に秀でていた。『日本史』
光秀は、信長に従順だった。『日本史』
光秀は、信長の気性をよく知っていた。『日本史』
第52話
☆光秀は、兵法に精通していた。『日本史』
☆光秀は、信長の天下布武に大きく貢献した。『日本史』
☆信長は、光秀に志賀一郡・丹波一国を与えた。『日本史』
☆光秀は、度々、主を変えている。
☆光秀は、主替えによって立身出世した。
☆光秀は、忠義心が希薄だった。
☆光秀は、下剋上の人だった。
☆光秀は、立身出世のために主君を利用した。
*2【参照】目次小 11光秀の年齢 3土岐の随分衆 小
第72話
☆光秀の明智氏は、土岐頼武の家臣だった。
☆光秀は、土岐頼純の家臣。
斎藤道三による下剋上が始まった。
☆頼純は、道三に殺害された。「春日文書」
☆光秀は、主君を失った。
☆光秀は、越前へ逃げた。「遊行上人三十一祖京畿御修行記」
☆光秀は、まだ、独身だった。
道三の下剋上、成る。『信長公記』
【参照】16光秀の雌伏時代 5遊行上人
第203話
光秀は、頼純の家臣だった。
頼純は、斎藤道三に殺害された。
光秀は、主君を失った。
【参照】16光秀の雌伏時代 1光秀と越前
第153話
光秀は、貧しかった。
「立入左京亮入道隆佐記」「遊行上人三十一祖京畿御修行記」
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本能寺の変
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