本能寺の変1582 第153話 16光秀の雌伏時代 1光秀と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第153話 16光秀の雌伏時代 1光秀と越前
◎光秀は、没落した。
光秀は、土岐氏の元家臣。
だが、主家を失い、没落した。
◎光秀は、貧しかった。
おそらく、そうだっただろう。
何しろ、「牢人」。
収入が無い。
美濃国住人、土岐の随分衆なり*1、
(「立入左京亮入道隆佐記」)
濃州土岐一家牢人たりしか*2、
(「遊行上人三十一祖京畿御修行記」)
*1【参照】目次小 9光秀という男 2立入宗継の証言 小
第53話 「立入左京亮入道隆佐記」
前代未聞の大将なり。「立入左京亮入道隆佐記」
立入宗継は、歴史の証人。「立入左京亮入道隆佐記」
光秀は、土岐氏の家臣だった。「立入左京亮入道隆佐記」
弓取りはせんじてのむへき事に候。
「立入左京亮入道隆佐記」
光秀は、随分衆だった。
*2【参照】これについては、後述する。
◎三人の娘たちは、この時期に生まれた。
彼女たち三人は、ともに、越前で生れた。
光秀一家、親子五人。
貧しくとも、幸せだった。
そこには、今も昔も変わらぬ、家族の姿があった。
そう、思う。
【参照】目次小 11光秀の年齢 1三人の娘 小
第68話 光秀には、三人の娘がいた。
光秀の三女は、細川忠興へ嫁いだ。「綿考輯録」
光秀の長女は、織田信澄へ嫁いだ。
光秀の二女は、荒木村次へ嫁いだ。
「立入左京亮入道隆佐記」
【参照】目次小 11光秀の年齢 2柴田勝家と滝川一益 小
第71話 光秀の長女は、永禄元年頃に生まれた。
光秀は、弘治年間に妻木氏を妻に迎えた。
◎光秀には、守らねばならぬ者たちがいた。
時代は変われど、父の思いは変わらず。
「守らねばならぬ」
幼子の寝顔を見るたびに、その思いは強まっていく。
【参照】目次小 8光秀の苦悩 6守るべき者 小
第47話 光秀は、嫡男光慶のことで悩んでいた。
光秀は、平穏・安寧を望んでいた。「続群書類従」
第49話 光秀には、守らねばならぬ者たちがいた。
光秀は、子らの将来を案じていた。
我等不慮の儀存じ立て候事。「細川家文書」
光秀は、最良の状態で光慶に引き継いでやりたかった。
そのためにも、新たな主君に仕官する必要があった。
この時代、すなわち、永禄年間の初期。
綺羅星の如き戦国大名たち。
越前朝倉
越後上杉
甲斐武田
関東北条
駿河今川*1
美濃斎藤*2
尾張織田*3
等々
そして、都には、将軍足利義輝がいた。
しかし、仕官の有無等については、よくわかっていない。
したがって、光秀の主人は、次のようになる。
土岐氏 → 不明 → 細川藤孝 → 足利義昭 → 織田信長
*1【参照】目次小 15信長の台頭 3桶狭間 小
第129話 今川義元の最期。『信長公記』
*2【参照】目次小 15信長の台頭 7斎藤義龍の死 小
第138話 ☆美濃の斎藤義龍が亡くなった(三十五歳)。
*3【参照】15信長の台頭 第117~150話 小
◎光秀は、逞しい男だった。
何れにしても、娘たちは、無事、成長する。
「無」からの、再出発。
光秀には、それが出来た。
逆境を乗り越える強いパワーがあった、ということである。
逞しい男だった。
⇒ 次へつづく 第154話 16光秀の雌伏時代 1光秀と越前
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