本能寺の変1582 第71話 11光秀の年齢 2柴田勝家と滝川一益 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第71話 11光秀の年齢 2柴田勝家と滝川一益
信長は、老臣たちの「知」を重んじた。
彼らの、知識・教養・経験等を重視した。
信長は、老臣たちの体力を気遣った。
以下は、信長が、天正十年(1582)三月十七日、松井友閑に送った書状
である(一部抜粋)。
此の如く、卅日・四十日際に一偏に属するの事、
我ながら驚き入る計りに候、
相州氏政(北条)、駿河へ在陣にて、一廉(ひとかど)馳走候、
東八箇(ヶ)国の儀は勿論、い儀なく隙を明け候、
然らば、甲斐・信濃の事、城介(信忠)を残し置き申し付くべき候、
信長は、不日、帰国すべく候、
爰許(ここもと)見廻り無用に候、
年寄ども呼び寄すべきと存じ候へども、
路次険難、老足叶うべからざる儀に候間、
罷り越すべからず候、
(「松井友閑宛黒印状写」「織田信長文書の研究」)
彼らには、体力に難があった。
「路次険難、老足叶うべからざる儀に候」
老人の足では、無理である、と言っている。
残念なことである。
なお、これについては、後述する。
老人とは。
やはり、「六十代」からであろう。
そして、かつ。
知力・気力・体力・行動力のバランスに変調を覚えた時。
自身が、それを自覚した時からである。
「代」としたのは、幅があるから。
結局は、人、それぞれ。
十人十色。
百人百様。
個人差がある。
一概に、決めつけることなど出来ない。
当時の人々は、短命だった。
それ故、現代の我々よりも早かった。
以上、縷々述べてきた。
勝手ながら、ここでは、そうさせて頂く。
光秀は、老人の一歩手前だった。
その時は、確実に迫っていた。
「是非もなし」、である。
光秀は、そのような時期に差し掛かっていた。
光秀の長女は、永禄元年頃に生まれた。
三女が永禄六年(1563)の生れとすれば、そうなる。
光秀は、弘治年間に妻木氏を妻に迎えた。
弘治は、元年(1555)~三年(1557)の短期間。
長女の誕生が永禄元年頃だとすれば、そうなる。
⇒ 次へつづく 第72話 11光秀の年齢 3土岐の随分衆
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